日本城巡り

津 城

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大河内城

三重県津市丸之内本丸

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≪安濃津城≫

元亀年間(1570〜73)
城主・長野上野介信謙

慶長十六年(1611)
城主・藤堂和泉守高虎

寒さで堀は凍っていた

昭和33に復興した隅櫓

三重県の中央部、伊勢湾に面した平地部に津城は築かれている。北の安濃川・南の岩田川を防範囲 

として取り入れた要害の地にある。津はもともと安濃津とよび、鎌倉・室町時代には中国の『武備志』に

室町時代には、中国の『武備志』に坊津や博多津と共に『日本三津』の一つとして海外に知られた良港であ

ったが、明応七年(1498)の大地震に港は陥没し、津の町も高潮で壊滅してしまった。津に城が築かれたのは

長野城主の一族細野伊豆守藤光、あるいは細野壱岐守藤敦によるといわれるが、これは

弘治年間(1555〜58)に細野藤光が長野村《現在の美里村細野》を出て安濃城を築いたのを、『三国地志』

が安濃津城按・弘治年中伊豆守藤充初て築き、永禄十一年其男九郎右衛門尉継で此にあり』と誤って

伝えたことに起因している。永禄十一年(1568)、織田信長は伊勢平定に乗り出し、長野城主長野氏

【工藤氏】一族と対戦、まず長野家の宿将細野藤敦の安濃城を攻撃したが、城は落ちず

説得し長野家と和睦、信長の弟三十郎信良を長野家の養子として、跡目を継がせることとなった。

元亀元年、上野城《河芸町》を築いて五万石の領主となったが、上野城は急造であったため

狭小に過ぎたので、さっそく津に築城を始めた。元亀三年、長野上野介信兼と改名し、天正八年(1580)

五層の天守ができあって津城は完成した。のち、織田姓に復して織田民部少輔信包と改名した。


私見・登城日2005・01・10  作成日2005・01・30  編集日2006・05・28

私見・登城日2002・04・20  作成日2002・05・06  編集日2006・05・28

鳥羽へ1泊2日の旅の途中、ナビに津城が映し出された、先を急がないので寄ってみた。

城内の駐車場に車を停め、櫓を右手に本丸に向かう。本丸は公園になっていて、その真ん中に

藤堂高虎が馬に跨った精悍な銅像が目を引く。一通りの写真を撮り鳥羽に向かう。 
 て・よ

朝4時30分に自宅を出発。名阪の伊賀上野から伊賀越えを決行!。 寒さでタイヤは硬く乗り心地が悪い。

外部温度計は、-3度を示し今年初めての登城が心配だ。午前7時前、津城に到着。3年前に一度来ているが

城郭を一週してからの登城とする。堀の方に周って登城しかけたが、堀は凍って藤堂高虎自慢の犬走りの

高石垣に華を持たせている。が、寒い!本丸・庭園・隅櫓を撮ったあと、石垣を入念にビデオに収めた。

て・さ

私見・登城日2007・04・08 作成日・2007・05・06

今回は三度目の登城となるが、一つ期待するお便りを頂いた。橋元皆人さんから、

『旧津城の京口門』が存在すると写真付きのメールを頂き、期待しての登城となった。

いつものように、大手口より城郭に入る。今回は、丁度桜の季節で花見客多く、

なかなかシャッターチャンスが無い!。

写真も撮り終え次の橋元さんとの待ち合わせ場所、久居駅に向かう

旧津城の京口門へ

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