日本城巡り
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亀山城

伊勢

≪粉蝶城≫

三重県亀山市本丸町


天正十八年1590)

築城者・岡本宗憲

№026

平重盛の子資盛は、平家?亡後、鈴鹿郡の久我に流されたが、しの孫実忠は、戦功によって

この地に地頭になり、関『亀山氏山下町』に居館を築いて関氏を称して二百年間勢威をふるった。

戦国時代になると、関盛信は織田信長に降り、その子一政は豊臣秀吉に仕えたが、天正十八年

(1590)蒲生氏郷が会津へ転じたのに従って、奥州白河で五万石を領した。

亀山城には岡本宗憲が二万二千石で入ったが、城が腐朽しているため、新たに亀山城を築いた。

それまでの城を亀山古城と呼ぶ。新城には三層の天守を建て本丸・二の丸・三の丸を設けた。

慶長五年(1600)の関が原の戦いのさい、宗憲は西軍に属して滅び、以後、亀山城は目まぐるしく

代わったが、延享元年(1744)から石川氏六万石が続いて明治に至った。


私見・登城日2002・04・21  作成日2002・05・16  編集日2006・03・19

私見・登城日2005・01・10  作成日2005・03・06  編集日2006・03・19

2002年の登城は、鳥羽からの帰り道小雨の降るなかの登城開始。これまで何回となく登城を

してきたが、城に興味を持ち出してからは、初めての登城となる。石垣の下から多聞櫓を見ていて

バランスがおかしいなぁと思いながらシャッタを切る。帰ってから資料を見るとそこは天守台で

その上に多聞櫓を移築したと書いてあった。これで納得した。が、もう一つ、問題が残っていた。

それを解明しょうとして、2005年に再登城してわかった事は、江戸中期の多聞櫓の窓が、なぜ

ガラス窓になっていたか。この疑問も、ただ、湿度を取るためと聞き、あえなく解決
した。


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2002年の登城の多聞櫓

2005年の登城の天守台に多聞櫓が

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