関宿
『関』が歴史に登場するのは,古代日本三関の一つ「鈴鹿の関」が七世紀にこの地におかれてからで,
これが地名の由来となり,古くから交通の要衝であった。
『壬申の乱』の舞台、『斎王群行の道』、一休禅師による『関地蔵開眼話』、さらには、本能寺の変における
『家康伊賀越えの道』など街道にまつわる話は実に多い。
慶長六年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めて以来、東海道五十三次第47番目、屈指の宿場として
参勤交代の大名行列や伊勢詣りの旅人で大いに賑わいました。 天保十四年(1843)の記録には、
屋敷632軒、本陣2軒と脇本陣2軒、旅籠42軒酒食店99軒があったと記されている。
百五銀行
通行手形平成十九年(2007)四月八日発行 作成日平成十九年(2007)四月二十六日
編集日平成十九年(2007)七月十六日
橋元さんの運転する車でこの関宿に乗り入れた!。
江戸時代にタイムスリップしたごとき、この家並みは錯覚をする。
車に乗っているのが可笑しくなるほどこの風景に車は似合わない!。
約2km続く、この家並みを通って関地蔵院に向かう。