日本城巡り

鳥羽城

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大河内城

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三重県鳥羽市鳥羽町

文禄三年(1594)
築城者・九鬼嘉隆

≪錦城≫

本丸の石垣が殆んど無くなっている

鳥羽城の由来書

永正年間(1504〜21)橘次郎宗忠の時、伊勢国司北畠材親が鳥羽を攻略し、宗忠は北畠に降伏して

志摩二郡を与えられ、居城を岩崎山《取手山》に移した。この城は志摩各地にみられる半島や岬の

海に面した所に土塁や堀切を設けた程度の簡単な城であったと考えられる。九鬼嘉隆は

波切城九鬼定隆の次男として生まれ、九鬼家を継ぐと武力を持って志摩を手中に入れようとしたが

七島党の豪族の反撃を受けて舟で安濃津に逃れたこともあった。その時織田信長に誼を通じ

信長の力を借りて志摩に戻り、永禄十一年(1568)には、浦・安楽島・小浜の城を落とし元亀元年(1570)

には答志・和具・的矢・越賀などの諸豪族を支配下に入れてしまった。小浜城主小浜民部と共に嘉隆に

対して橘宗忠は、娘を人質として降伏した。嘉隆は宗忠の支配下の郷士を手なずけるため

宗忠の娘を妻とし、宗忠に男子がなかったので宗忠の所領を継ぐことになった。嘉隆は、その後信長に

従って各地に転戦、本能寺で信長が横死すると豊臣秀吉の従い、小田原征伐・四国・九州攻めに加わり

朝鮮の役など、常に水軍の将とした活躍した。嘉隆による鳥羽築城は文禄三年(1594)であったという。

慶長五年(1600)の関が原の役に、隠居の身であった嘉隆は西軍の石田三成に味方し、

嫡子守隆は東軍の徳川家康に従い、父子が敵見方に分かれた。戦いは家康の勝利となり、

嘉隆は答志島和具に逃れた。守隆は家康に嘉隆の助命を願って許されたが、

家臣の間違った命令が原因で嘉隆は切腹、五十九歳の生涯を閉じた。

東軍に味方した長門守守隆は加増を受けて五万五千石となり、寛永九年(1632)に没。


私見・登城日2005・01・10  作成日2005・02・06  編集日2006・05・28

鳥羽市内に着いたが、昼前になったので駅前の観光案内所に行き、食事処の場所を聞いた。

鳥羽駅から3kmの所にある伊勢海老だけの食堂での食事を済ませ、いざ出陣!。

が、思った程の遺構は残っておらず、本丸跡は公園となり石垣が少し残っているだけでした。

駐車場 駅の反対側に25台 無料  入城料 無料

て・さ

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