亀山城
丹波
京都府亀岡市荒塚南
築城者 明智光秀
043
天正六年(1578)
天正三年(1575)織田信長の丹波平定のさい、明智光秀が大将となって八上城(兵庫県)の
波多野秀治を攻めた。その功績が認められ、平定後信長から当地方を与えられて亀山の地
に入り、一年半ばかりかけて荒塚城を拡張して入城した。同六年のことで、光秀は入場と
同時に付近の社寺を破却して、その木材や石材を城に運び、新築同様に修築した。
同十年、中国地方出陣の鉾先を本能寺に変え信長を討ったことから、天下の逆臣の汚名を
受けているが、丹波における光秀評価は高く、民衆は光秀の死後もひそかに霊を祭祀していた。
光秀後の城主は目まぐるしく交代する。 天正十四年(1586)より羽柴秀勝
文禄二年(1593)小早川秀秋が、それぞれ入城した。秀秋は三層だった天守を五層に改めた。
その後は、石田三成・前田玄以等の管理下となる。慶長十四年(1600)岡部長盛が三万二千石を
もって入城して立藩した。以後は、松平・菅沼・久世・井上・青山つづいて寛延元年(1748)松平信岑
が入城して明治に至った。
≪亀宝城≫
私見・登城日2002・12・01 作成日2002・12・18 編集日2006・03・18
亀岡駅の図書館で資料と所在地を教えて頂き、車をと図書館の駐車場に停めさせてもらい、
図書館から歩いて信号を渡る。明治10年(1877)天守は解体され、天守台は城跡を管理する
『大本教』教団への2度にわたる弾圧により、破壊時された時があるが、現在は大本教教団
により、石塁が復元され今日に至っていると図書館の職員の方に教えていただいた。
正門から一直線で本堂まで進み、本堂手前の石垣がひときわ目をひく。
この石垣が明智光秀公の時代の石垣だとのこと。右奥に天守台がかすかに見えるが
禁足地となっているため、周りからカメラに収めようとするが、樹木が邪魔して撮れない。
何とか、ビデオには撮れたが半分大木が写っていた。
本丸跡の石垣
亀山城の外堀
て・よ