登城日平成十八(2006)年九月十八日 作成日 平成十八年九月十九日 編集日平成十八年九月二十三日
伏見城
京都市伏見区桃山町
《桃山城》
文禄元年(1592)
豊臣秀吉
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豊臣秀吉は関白職とその居所を養子の秀次に譲り、朝鮮出兵の本営であった肥前名護屋城へ
出向いた。その間に新隠居所を伏見指月の地に築かせた。これが伏見指月城で、
文禄元年(1592)には、いちおうの完成をみた。しかし同三年さらに拡張工事が始められた。
指月の地は高さ二十五bの台地で、南に巨椋池と宇治川、さらに山城国中部の低湿地を見下ろす
要害地であった。この地に淀古城の天守閣と櫓、さらに関白秀次失政により廃城となった
聚楽第の建造物が移された。だが、慶長元年(1596)七月に起きた大地震で城が大破し、
多数の死者を出した。その後、指月の地から地盤の良い木幡山へ城を移す。
秀吉はこの新城完成後四年で没したため、代わって徳川家康が秀吉の重臣石田三成を
佐和山城へ追放して大老として入城した。
慶長五年(1600)天下分け目の暗雲が漂い始めた頃、西軍の小早川秀秋と島津義弘らが
伏見城を攻撃した。この時、秀吉の伏見城はことごとく焼けた。
土塁と土塀
大天守と小天守
私見
25年ぶりに伏見城に来たが、遊園地内にある伏見城には登城できずフェンス越しにしか見る事が出来ない。
城ファンの人が公園の入口まで来ているがため息をついて車をUターンして帰っていく。
何か寂しい感じがするが、どうしょうもない。天守の周りを見て回って10数枚の写真を撮り
後ろ髪を引かれる思いで帰路につく。虚しいなぁ〜
小天守
遊園地の入口の看板