日本城巡り

合戦

墨俣城

060

≪模擬天守≫
 
平成二年

岐阜県安八郡墨俣町

永禄九年(1566)
築城者・木下藤吉郎

出世橋・豊臣橋手前から天守を望む

入城門と碑


永禄四年(1561)美濃稲葉山城主義竜が死んで、その子竜興が跡を継ぐと、織田信長は本格的に美濃攻めを

開始することにした。そのために、とにかく美濃国内に橋頭堡を築こうと考え、長良川・犀川・木曽川

五六川・天王寺川などが合流し、まるで≪州の股≫のようになっている墨俣を築城の地に選んだ.

地の利は悪く、しかも敵地である。資材を運搬し、敵の襲撃を避けて築城しなければならない。当然、

難工事が予測された。永禄九年、まず佐久間盛信が信長に命じられて築城を開始したが、途中で斉藤方の

攻撃を受けて失敗した。次に柴田勝家が着手したが、これも前回同様失敗に終わる。このとき、まだ

軽輩だった木下藤吉郎秀吉がこの工事を買って出た。信長がこれを許すと、秀吉はかねてから手な

ずけておいた蜂須賀小六正勝ら近郷の野武士たちを駆り集め、上流から資材を筏に組んで流し、あっという

間に城を築きあげてしまった。世にこの城を秀吉の≪一夜城≫と称するが、もちろん一夜で築いたわけ

ではない。二〜三日はかかったのだが、それにしても迅速な築城であった。木下藤吉郎の名が史上に

登場するのは、この墨俣城のときが最初である。秀吉は少年のころ流浪にひとしい生活を送り、そのころ

野武士の蜂須賀小六のところに厄介になっていたこともあったらしい。その縁がいざという場合の役に

立ったのだった。

      私見登城日2005・07・18   作成日2005・07・31  編集日2006・05・27

小倉山城から最終目的の墨俣城に来る途中、カ−ナビが壊れ城の位置がわからない。

前回2003・08・10に来たのを思い出しながら進む。国道21号線まで出て、長良川の

手前を堤防沿いに、北に1km程進むと長良川に平行して流れる犀川が二つに分かれる。

その三角形の股の部分が城跡である。前回も暑かったが、今回も暑い。豊臣橋の前の駐車場に停め、

記念写真を撮り、早々に引き上げ、ナビ無しで自宅に向かう。早くナビを修理して、次の登城は

万全で望もう。

私見・登城日2003・08・10  作成日2003・08・29  編集日2006・05・27

早朝、大垣城に着き、時間が早すぎるので墨俣城に来たが、まだ早すぎる。開館までの時間を

城周辺の探索をし、街道・城下町と見てまわり、9時過ぎに登城した。

豊臣橋上は蝉の死骸で足の踏み場もない。蝉を避けながら天守に進む。

天守内では、築城当時の模型や木材の数を表示して詳しく説明してあった。

駐車場 豊臣橋前 5〜6台 無料   入城料 200円

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