合戦
郡上八幡城
郡上八幡城のはじまりは鎌倉時代、承久元年(1219)東胤行
が山田庄の地頭となり、はじめ阿千葉城《郡上郡大和村剣》を
築きここに居城したが、のち篠脇城・東殿山城『犬鳴城』にと移った。
戦国争乱の中である。永禄二年(1559)になって東常慶のとき
遠藤盛数に東殿山城を攻められ、落城し、十一代・三百四十年
続いた東氏は滅亡した。遠藤盛数ははじめ東殿山城に入ったが、
城地を不可とし、新しく八幡山に城を築いた。
すなわち郡上八幡城である。
遠藤盛数の子・慶盛のとき織田信孝・柴田勝家連合軍に加勢し、
豊臣秀吉に反したため戦後、二万七千石を滅封され移封された。
代って、稲葉貞通が城主となったが、関が原の戦いで稲葉貞通が
城主となったが、関が原の戦いで西軍に属したため移封、遠藤慶隆
が二万七千石の旧領で入封した。このとき城の増築をした。
のち、井上・金森などが城主となったが、宝暦八年(1758)青山幸道
が四万八千石で入封すると以降世襲して明治に至った。
116
山城・標高356m
岐阜県郡上八幡町城山
永禄二年(1559)
築城者・遠藤盛数
≪積翠城≫
私見 登城日2004・09・20 作成日2004・10・11 編集日2006・05・27
小牧山城から、東海北陸線で郡上八幡まで約1時間。長良川を渡り吉田川で記念撮影を撮り、郡上八幡城に向う。
道は狭いが城下町の雰囲気は良く残っている。天守近くまで車で行けるという資料はあるが、小牧山城での
例があるのであまり期待はしていないが、行けることを願って進む。道は極端に狭くなり、徒歩で登城される人を
避けながら、ヘアピンカーブをいく度も曲がり、やっと駐車場にたどりつく。目の前に天守・石垣と、ここまで車で
上がれると山城に来た感じはしない。歩いての登城の皆さんご苦労様です。この時は、資料の有難さを痛感した。
天守は、昭和8年に築城。大垣城の模擬天守と聞いていたが、期待を裏切りもう一度行ってみたい城になった。
城下町に下りて遅い目の昼食を取り、宗祇水で名水をペットボトルに淹れ、最終の岐阜城に向う。
山上の駐車場は磔のあったところだと!。えっ、うそっ!!
天守からの展望
大手道からの天守
私見・登城日2005・07・18 晴れ 作成日2005・08・14 編集日2006・05・27
宿を早朝3時に出発、郡上八幡城を目ざす。4時過ぎに到着して車で登城開始する。が、登城道は、
、車1台ギリギリで登れる道幅で、早朝の土手をライトが照らす、土手が不気味に思う。途中で一方通行を
逆走して中腹の駐車場まで逃げるように戻り、態勢を立て直す。仮眠を取り、5時頃から再度登城開始。
今度は助手席から、次は右、次は急ヘアピンカーブで左回りと指示を出す。10分で山頂の駐車場に着き
天守に向う。ここが磔があったところだ。天守前まで来たが中には入れない、売店前で天守と土塀・石段・
下界の写真を撮り早々に引き上げる。帰りに郡上八幡の宗祗水で名水を汲んで帰ろうと下りてくると、大通
りは祭りの提灯でいっぱいになっている。昼間だったら規制でとても入って来れなかったなぁと思いつつ。宗
祗水前まで来たが、まだ、駐車場は開いていないので、お店の前に車を停め、名水を汲みに行く。
水量は多く、ゴォゴォと流れていた。ポットに汲み、ドラマによく出る橋を見て引き上げた。
て・よ
駐車場 50台 無料 入城料 300円