合戦
岩村城
岩村駅の南東2km山麓に櫓・城門が復興し、資料館がある。ここから本丸まで徒歩30分ほど、車で本丸
下まで行くこともできる。岩村城のはじまりは源頼朝の家臣、加藤次景廉が遠山庄をもらい建久6年(1195)に
築城した。一説には文治元年(1185)ともいう。以降、加藤次氏は遠山姓を名乗った。遠山氏が城主になって
380余年をへた元亀元年(1570)頃、武田信玄の命を受けた遠山城主、秋山晴近が岩山城を攻めた。ときの
城主遠山景任は、岐阜の織田信長に助けを求め、救援を得て武田軍を退けた。元亀三年に遠山景任が病没
すると再び秋山晴近が岩山城を攻めた。このとき岩村城と武田方の和睦が成り、以降秋山晴近が岩村城主
となった。天正三年(1575)織田信長はその子信忠に岩村城を攻めさせこれを落した。城主として信長の家臣
河尻鎮吉が岩村城に入った。天正十年、森長定『森蘭丸』が封じられ信長が本能寺に倒れたとき蘭丸も戦
死、岩村城には蘭丸の兄、森長可が入った。のち田丸・大給・丹羽と代り、元禄十五年(1702)大給乗紀が
二万石で入封、のち三万石となって世襲し明治に至った。《岩村御前とは通称で遠山氏最後の城主景任の
の妻、織田信秀の妹、織田信長の叔母。》《元亀二年景任三十六歳で病死。信長の八歳になる五男御坊丸
を跡継ぎとして養子に迎える》《元亀三年秋山晴近と和議、妻となる。天正三年信忠、岩村城を包囲、
和議の提案を出す、が、晴近と御前が信忠の本陣にお礼を言いに訪れると捕らえ、磔にしてしまった。》
私見 登城日2004・09・20 晴れ 走行647km 作成2004・09・23 編集日2006・05・27
朝4時に雨の歓迎を受け、一路郡上八幡に向けての出発。いつもの事、現地に着くと雨はあがる!?。
息子が岩村城に行きたいと言い出した。岩村城は今日の予定には入ってなかったが、急きょナビに
変更さす、238km。滋賀県の大津を過ぎた頃から車が多くなってきたので、名神自動車道に入る。
8時過ぎに到着、欄丸売店前の駐車場に車を停め石段をあがって行く。本丸・菱櫓跡・二の丸・三の丸
・井戸と探索した。井戸の説明書に、へびの骨をほり込むとたちどころに霧が発生すると書かれて
いたが?。 日本三大山城の一城
≪霧ヶ城≫
岐阜県恵那郡岩村町城山
建九六年(1195)
築城者・加藤『遠藤』景廉
114
山城 標高721m
駐車場 30台 無料 入城料 無料
て・さ・み
登城日 平成22年9月22日 作成日平成22年(2010)11月02日
今回は、岩村藩主邸跡にも寄ってみた。城山は、あまり換わった様子はなかったが、
岩村藩主邸跡は平成2年に再建されたそうで、太鼓櫓と門は すばらしいですね。
この藩主邸から城下町を観ていると、時代が遡るような気がしました。
癒されますねぇ〜
岩村藩主邸跡の太鼓櫓