日本城巡り

合戦

岐阜城


岐阜城跡はJR東海道本線、岐阜駅の北東約3.5km、金華山『稲葉山』山上と

山麓の一帯であり、山麓は岐阜公園となっている。山上に復興の三層四階の

天守があり郷土博物館でその最上層からの展望が雄大である。岐阜城の

創建は建仁元年(1201)鎌倉幕府の執事、二階堂行政である。二階堂氏

あるいはその一族が居城したが、当時の城は、山麓の居館、山上の詰の城

という鎌倉時代の典型的な構想であった。正元元年(1259)のころ二階堂行藤が

居城したと伝えられるが、この年廃城になった。応永年間(1394〜1427)の

初年頃に美濃守護代、斉藤利永が山上の城を修築して居城したが文安2年

(1445)になって、守護の、土岐氏の本城、川手城『革手城』に近く、加納城を

築いて移り、再び稲葉山城は廃城となった。そののち94年後の天文8年

(1539)守護、土岐氏の重臣となった斉藤道三が居城して稲葉山城を修築し、

井の口城と称した。道三はその子義竜と戦い討たれたが、義竜の子義興が

城主のとき永禄10年(1567)織田信長に攻められ開城した。信長は居城を

稲葉山城に移し、大修築すると城と城下町を岐阜と改めた。信長は

天正4年(1576)安土に新しく城を築き移るまで約10年間、岐阜を本拠とした。

岐阜には信長の長男、信忠が居城した。本能寺の変で信長が

倒れたのちは信長の三男、神戸信孝が城主となったが、翌天正11年、

秀吉との争いから攻められ開城、のち池田元助・池田輝政・豊臣秀勝などが

城主となり文禄元年(1592)に織田秀信が3万5千石で入封した。秀信は

慶長5年(1600の関が原の戦いで西軍に加勢したため攻められ開城した。

その翌年、岐阜城は廃城となり、建物は加納城《岐阜市西加納町》に移された。

      私見 登城日2004・09・20  作成日2004・10・11  編集日2006・05・25 

郡上八幡城から岐阜城を目指して来たが、時間が16時半を過ぎている。道路も混雑してるので、お城に電話をする。

何時までですか?閉館は11時です!。はぁ〜?耳を疑った??そうしたらロ−プウェイは何時まで?11時30分です

電話を掛けるところを間違ったかなと思い、
岐阜城ですよね?と尋ねる。そうです岐阜城です!!。それじゃぁ、

べつに慌てる事はない.。駐車場で時間の
確認!。ロ−プウェイの乗り場で最終の時間を確認!。いざ登城。

5年ぶりの登城であるが、338mの山頂まで15分で到着。天守は前回来たときより大きく綺麗に見えた。

天守手前で記念写真を撮る。天守内の資料を見終わって櫓にも資料があるとの事。天守を出ると


照明が点いており山頂からの眺めは、最高であった。下山して、さ〜て、どこで夕食を食べようかな〜!!。

岐阜県岐阜市金華山

復興天守
 1956

≪稲葉山城≫

山城 標高329m

003

建仁元年(1201)
築城者・二階堂行政


私見・登城日1999・03・21  作成日1999・04・18  編集日2006・05・25

金華山麓の駐車場に車を預け、公園からのロープウェイの乗り場に着く。ロープウェイの発着所では、

業務用のストーブに観光客が群がる。3月も終わりだと言うのにこの寒さは大阪では体験できない底冷えの寒さ。、   

15分に一度の運行を待ちわび、ストーブから離れる。頂上では雨上がりで、天守が霞んで神秘的に見える。

天守から下界を見ていると、一瞬、織田信長になったような気がしたのは、私だけかな

駐車場 1時間300円   天守入城料 200円  ロープウェイ 往復1050円

1999年登城の天守

2004年登城の天守

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