日本城巡り

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徳島城

徳島県徳島市徳島町城内

≪渭山城≫

至徳二年(1385)
築城者・細川頼之


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城山は標高六十二b、山上に本丸跡・東の東二の丸

西に西二の丸・西三の丸などの城郭が残っている。

東山麓には表御殿・奥御殿があったが、現在は徳島公園

となり、表御殿公園と御殿風建造物の徳島城博物館がある。

至徳二年(1385)になって足利尊氏とその子・義詮に仕えた

武将『細川頼之』が四国地方を収めたとき、吉野川の河口に

近い支流、助任川と新町川の間の中洲上に城を築いた。

≪当時、この辺りは河川の水流がことのほか美しく、その

風景は伝えられる中国の名勝、謂水のようであったところ

から謂山城あるいは謂水城と呼んだという。≫そののち城主

は替わったが、永禄年間(1558〜69)には『森高次』が居城

していた。天正十年(1582)土佐の勢力を持った『長宗我部

元親』が阿波攻略の兵を進め、謂山城を落とし、ここに武将

吉田康俊を置いた。

天正十三年になって豊臣秀吉が四国討伐を行い、戦功あった蜂須賀正勝・家政父子に阿波一国十八万六千石

を与えた。正勝は隠居し、阿波に入った家政は、はじめ一宮城に入ったが、あまりの高峻な山城だったので

秀吉の許しを得、謂山城地に大築城工事を起こす。家政の子・至鎮は大坂の陣の戦功で徳川家康から

元和元年(1615)淡路を加封され、二十五万七千石の封領となった。以後蜂須賀氏は世襲して明治に至った。


私見・登城日2004・05・02  作成日2004・05・04  編集日2006・05・07

城郭を一周し、下乗橋の前に車を停め、左に太鼓櫓台・右に月見櫓台を見て下乗橋を渡り、大手門跡

からの登城。堀の石垣の石は四国独特の青石が野面乱積みで積まれている。城内に居た人に尋ねたら

左に行くと銅像があると情報を得て、カメラとビデオのスイッチを走りながら入れる。庭園の手前に

蜂須賀家政像が見えた。シャッターを切る。次いでビデオをまわす。車に戻るまでの石垣の写真を

撮り終えすがすがしい気持ちで車に乗り込む。

城外からの下乗橋

城内からの下乗橋

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