日本城巡り

063

東山城

徳島県三好郡三好町

築城者・新田氏

山城・標高500m


岡山城 東山城
日和佐城 勝端城
川島城 徳島城
撫養城

東山城は、八つ石城《井川町》とともに吉野川南北の

おさえとして、鎌倉時代から室町時代にかけての城で、

南北朝時代(1340)南朝方の新田氏一族が拠ったと

伝えられている。この城は、河内の千早城に範をとった

もので、山頂には空壕をめぐらし、搦手は後方隠里に

通じ大きな空濠が設けられている。戦国時代・大西備中

守元武が拠ったといわれ、天正五年(1577)長宗我部元親

が阿波への入国により落城したと伝えられる。

白地城主・大西出雲守頼武の三男、大西備中守が拠もり、

天正五年(1577)長宗我部元親の軍と戦い落城。

妻島村で逆徒のため死すとある。白地城があまりにも、

あっけなかったので、この城もほとんど戦わずに捨てられ

たようである。しかし、この城も形式、位置から考えて

南北朝期の山岳武士の城で新田一族の築城であろう。


虎門柵

空堀

私見・登城日2003・09・21  作成日2003・10・04  編集日2006・05・07

高知城に行く途中、『山城』の看板を発見。城とつくと見逃すわけにいかず、ハンドルを切る。

途中、畑を耕していた方が居たので聞いてみると、
『行くべき城よ!。途中まで車で行けるから

あとは、歩いてもしれてるべ
!!。』の言葉を聞き、意気揚々小雨の中車を走らす。が、山道に

入り、道がだんだん狭くなり、雨でタイヤはスリップするは、左は絶壁・右は崖っぷち一速で

ゆっくり・ゆっくりと、
んっ。小さな板切れに『大手道』と書いてあった。まさか

そのまさかが当たっていた
!?。靴を履き替えている最中に雨が上がった。

でも、傘はもって行ったほうがいいだろうと思い、傘・ビデオ・カメラと持ち、その大手道やらを

上り始めた。大手道とは名だけで、幅1mほどの水が滴り落ちていたから用水路かと思うような

道を、
『道じゃない』少し行くと蜘蛛の巣がビッシリと行く手を塞ぐ。この感じからは何ヶ月も

人手が入ってないように思ったが、先程地元の方に聞いた
『行くべきよ』の言葉が耳から

離れない。肩にカメラとビデオ、左手に傘、右手に木の枝を持ち、蜘蛛の巣を払いながら

行けども、行けども、見えてこない。約1時間余りの格闘の末、やっと、櫓台に到着。

カメラ・ビデオと撮影開始。約30分の探索・撮影をしていたが、高知城の事を忘れていた。

時間が無い、時間がぁ〜

慌てふためいて、転がるように下山した。完全に高知城・時間の事を忘れていた。

歩いてもしれてるべ。 それはないよぉ〜

inserted by FC2 system