日本城巡り

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勝端城

徳島県板野郡藍住町勝端

貞治二年(1363)
築城者・細川詮春


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勝端城は南北朝時代から戦国期にかけて阿波の政治・経済・文化

の中心として、ある時は、天下の勝端として名をなした。日本の

中世史上見過ごしのできない勝瑞城の城跡である。

内掘の一部が蓮池となって残り、堀に囲まれた森の中に見性寺の

境内になっていて城主・三好氏、三代の苔むした墓がひっそりと

建っている。築城年代については諸説あるが、一応、

貞治二年『正平十八年・1363)秋月城に本拠を構えていた阿波の

守護職三代目・細川詮春が勝端に移った年とするのが妥当の

ようである。永正四年(1507)六月、管領・細川政元を急襲して

殺した家臣の香西元近らは、澄之を細川の家督としたが、同年

八月には澄元が、阿波から上洛して来た三好之長らの武力を

借りて澄之らを滅ぼして家督を継いだ。こうして両細川の激しい

家督争いもいったん収まった。時に天文二十一年(1552)のこと

である。長慶の弟・三好義賢は細川持隆の重臣といて阿波の

兵権を握り、中央政権を握る兄の長慶を助けた。こうして戦国の

争乱に駆り立てられた阿波の国侍たちが、堺や兵庫に上陸して

戦い、戦いに疲れては軍を返して阿波に帰り、傷を癒して、また、

海を渡る。その拠点が勝端城であった。義賢は永禄五年(1562)大坂に出陣しており、畠山勢との戦いで

流れ矢があたり戦死して果てているが、その子、長治が後を継いだ。長治は、日夜酒宴にふけり、

政治も乱れた。このあたりからは、戦国大名・三好氏の没落への足取りが速まる。それに拍車をかけるように

京都では三好長慶の家臣・松永弾正久秀が主君をしのぐ勢域を見せ、将軍・義輝を謀殺するなど、横暴を

きわめたが、天正五年(1577)、織田軍と戦って滅ぼされた。


私見・登城日2003・09・21  作成日2003・10・03  編集日2006・05・07

さて、最終の城、勝端城にやって来た。分かっている事は、『JR勝端城駅から10分・県道沿い

こんもりした森
』これだけ分かっていたら、ピンポイントで行ける。だが時間が7時を過ぎている。

問題は時間だ。暗くなるとこんもりした森が確認しずらい。あせる気持ちを落ち着かせ、県道沿いを

駅に向けて車を進める。こんもりの森発見
。その前に勝端城の看板発見。あんがいストレートに

着きました。フラッシュをたきながら、撮影完了
。さぁ〜 夕食はビンビ屋の刺身がまってま〜す

勝端城の内掘

勝端城の城碑

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