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甲斐の国・二人で城巡り

慶長四百六十二年(2008)九月十五日、甲斐の国を目指して朝2時半に馬(車)を跨ぐ。
西国街道の高槻一里塚を過ぎ、大山崎インター(追分)より名神自動車道(東海道)に入る。
中央自動車道(中山道)に乗り継ぎ、伊那(宮田宿)附近で夜が明ける。

高遠城 長野県上伊那郡高遠町東高遠
天文十一年(1542)、甲斐の武田信玄が上原城の諏訪頼重を攻めると、諏訪氏と同族であった
高遠城主高遠頼継は信玄に協力して上原城を攻撃した。しかし、その後信玄の恩賞が無かった事により
反旗を翻して対立。戦闘の末、天文十四年(1545)に高遠城は落城し、以後は武田氏の拠点となった。

藤澤本陣跡   長野県伊那市高遠町藤澤御堂垣外
ここは江戸時代の参勤交代のとき、大名行列の一行や幕府の役人などが宿泊した御堂垣外宿の本陣である。
当家は、保科八郎左衛門が祖であり、そののち保科改め藤澤となる。
古記録によれば天和年間(1680)には、すでにこの宿が整備され、享保十年(1725)に藤澤八左衛門が
本陣役となった。以来、八左衛門は世襲で永代本陣役を勤めて明治に至った。なお、脇本陣の設置はなく
問屋油屋が脇本陣役を勤めた。本陣は、建物の建築や修復には藩の補助を受け調度品や宿かごなどを
貸与されていた。建物のうち門、住宅内の殿様座敷(上段の間)、江戸中期の枯山水の坪庭、大名の籠立石
などが本陣の構えを伝えている。                    高遠町教育委員会

藤沢城
旧高遠町の高遠町宝(史跡)指定書によると、藤沢城は鎌倉時代の元暦・文治年間(1184―90年)
諏訪の社領に属していた藤沢盛景の築城とされ、天文十八年(1549年)には藤沢の郷士、保科正直が
居住したと伝えられている。1961年、旧町教育委員会から史跡の指定を受けた。守屋山から続く地形から
蛇山とも呼ばれ、山頂(1040メートル)には、土塁に囲まれた平地と、南北の尾根に5本の堀が残っている。
松倉(金沢)街道と杖突街道の合流点に当たり、古来から交通の要所だった。

杖突街道

杖突峠

順次アップしていきま〜す

高島城  長野県諏訪市高島
天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし天下を統一すると、全国に秀吉の家臣が
大名として配置されていった。信濃諏訪郡は日根野高吉が2万8千石をもって封ぜられた。
高吉は諏訪氏の居城である金子城に入るが、新城の築城を決意し、諏訪湖に浮かぶ小島を利した
水城を築いた。ここには元々、茶臼山城の砦があったともいう。
今回も、時間ギリギリ(5時20分)で、天守の前で扉を閉めかけていましたが、係りの方のご好意で扉を開けて頂き
天守に上がれました。高島城の係員(女性二人の)方にお礼申し上げます。ありがとうございましたm(_ _ )m

上原城  長野県芽野市永明
茅野市上原にある上原城は、諏訪総領家の最後の当主諏訪頼重の居城でした。
天文11年(1542年)7月、武田晴信の攻撃を受けた頼重は、桑原城で晴信を
迎え撃つべく上原城に火をかけ退却しました。

新府城  山梨県韮崎市中田町
新府城は天正九年(1581)武田勝頼が迫り来る織田・徳川軍を迎撃する為に真田昌幸を
普請奉行にして造った城である。勝頼はここに甲斐の府中を移そうとし、甲府の古府中に対し
新府中という意味で新府城と名付けた。

要害山城  山梨県甲府市上積翠寺町
甲斐守護職の武田信虎が永正十六(1519)年、躑躅ヶ崎館を造営して居館を石和から移し、
その翌年の永正十七(1520)年に躑躅ヶ崎館の詰の要害として築城された。武田氏の重臣
、駒井高白斎政武の「高白斎記」の永正十七(1520)年六月の条に「積翠寺丸山を御城に
取り立てられ普請初る」と記されている。大永元(1521)年二月二十七日、今川氏親の属将で
遠江土方城主(高天神城主が正しい)の福島正成が甲斐に侵攻、河内を占拠、九月六日に
大島で合戦するが信虎は破れ、福島軍は富田城を陥として国中地方に侵攻した。この危機に
信虎は正室の大井夫人を要害山城に避難させ、十月十六日に飯田河原で福島軍を迎え撃ち
敗走させた。

躑躅ヶ崎館  山梨県甲府市古府中野
躑躅ヶ崎館は相川が形成する扇状地形の要(付け根)に位置している。
すなわち三方を山に囲まれ、南方のみ甲府盆地へ開けている。築城者は武田信玄の父信虎で、
永正16(1519)年にそれまでの府中であった甲府盆地東方の石和から居館を遷した。
当初は現在武田神社が建つ中曲輪・東曲輪からなるほぼ単郭式の方形館で、
後に北曲輪(味噌曲輪・隠居曲輪)・西曲輪が増設され、武田氏滅亡後、徳川家臣平岩親吉に
よって西南に梅翁曲輪と中曲輪天守台が設けられた。尚、現在武田神社への表参道となっている
南側に門はなく、大手は東に開かれていた。

甲府城  山梨県甲府市丸の内一丁目
府城は、古くは甲斐府中城、一条小山城、舞鶴城、赤甲城などとも呼ばれていました。
天正十年(1582)甲斐国は戦国大名・武田氏の滅亡後、まず織田信長の領国となり、
本能寺の変の後は徳川家康の支配するところとなりました。しかし、豊臣秀吉が天下統一を
なしとげると、秀吉の命令により甥の羽柴秀勝、腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ、
浅野長政・幸長父子によって完成をみました。また、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降は再び徳川の
城となり、幕末まで存続しました。

杖突街道
杖突峠から眺める景色は感動する.信州の三景観の一つに数えられているのもうなずける.場所は
中央道諏訪インターを降り、諏訪大社本宮脇から、高遠へ抜ける国道152号線(旧杖突街道)にある.
峠に立つと、目の前に、八ヶ岳の連山を望むことが出来る.左に目を向けると、霧ヶ峰が、更に左手には
北アルプスの高い峰が連なって見える.眼下には、諏訪の盆地のパノラマが広がる.左手には
諏訪湖を囲む諏訪の温泉街が、更に目を右に移していくと、諏訪に通ずる甲州街道(国道20号線)が
中央自動車道がそんな風景を見ながら甲府城を目指す。道の駅のそばは美味しいぞぉ!。

高島城

台ヶ原宿

上原城

甲府城

躑躅ヶ崎館

要害山城

新府城

瀬沢合戦跡

藤沢城

藤澤本陣跡

高遠城

中央自動車道

今回の走行キロ数は、893km

甲府城の天守台で

甲州街道  北杜市武川町
台ヶ原という地名の由来は、「大ヶ原」から字が変わったという説もあるようですが、ここはちょうど
尾白川と釜無川の合流点手前となり、釜無川の対岸から見れば、台地のようになっています。
 現在甲州街道は国道20号となって呼ばれていますが、この通りが本来の甲州街道になります。
このまま下っていくと国道20号と交差していますが、そのまままっすぐ行く道もあり、こちらが旧道のようです。

瀬沢合戦跡  長野県諏訪郡富士見町
天文十一年(1542)二月、信濃の小笠原・諏訪・村上・木曽の四大将は甲斐の武田晴信(信玄)を
攻めようと合議し、甲信境の瀬沢に陣取った。この動きを察知していた晴信はひそかに軍勢を発し
三月九日朝、信濃勢の不意をついた。戦いは辰の刻(午前八時)に始まり未の刻(午後二時)に
終わり、武田軍は信濃方を討ち取って大勝したが、味方にも多数の死傷者を出した。

朝2時半に出発〜夜23時20分着
最低気温15.3℃ 最高気温31.8℃
最終の高島城を出て、雨がポツリと

良かった(*´ェ`*)ポッ

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