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甲府城

遊亀橋

天守曲輪の石垣

石切場跡

稲荷櫓から城下町を望む

稲荷櫓から天守台を望む

天守台から稲荷櫓・城下町を望む

武徳殿

築城主 徳川家康
築城年 天正十一年(1583年)

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《舞鶴城》

《一条小山城》

 元々甲府の地は、甲斐武田氏の根拠地として栄えた場所ですが、現在の甲府城自体は、
天正十八年(1590)、北条氏を滅ぼした豊臣秀吉が、関東に移封した徳川家康に対する
押さえの拠点とし、義子である羽柴秀勝に築城を命じたのが始まりです。
その後は、加藤光泰、浅野長政、幸長(よしなが)父子に引き継がれて、慶長五年(1600)ごろには
約20ヘクタールに及ぶ巨大な城を完成させました。さらに近年の調査で、大阪城に匹敵する天守閣が
あったことが明らかになっています。
 
徳川政権下になると、徳川義直(家康の九男)、徳川忠長(秀忠の次男)、徳川綱重(家光の三男)、
など、徳川家の人間が甲府の地を治め、徳川綱吉政権下では柳沢吉保が入封。彼は、甲府城の整備と
街作りを行い、城は「鶴が舞うように美しい」と称され、「舞鶴城」の別名が起こりました。そして、
息子の柳沢吉里が大和郡山に転封されるまで、甲府城は約二十年間にわたって柳沢家の領地として
整備されます。
 
享保九年(1724)、甲府は幕府の天領となり、甲府勤番がおかれます。そして三年後、大火で城は焼失。
さらに明治以降、城は破壊されて多くの領域が保存されず失われ、市街地として開発されていきます。
 近年、発掘調査が行われ、前述のように威容が判明。復元工事が急ピッチで進み、2004年に稲荷櫓が、
2007年に山手御門が復元されるなど、昔の姿が我々の前に示されつつあります。特に、かなり広範囲に
わたって土塀が復元されている点は特筆されます。

ちなみに、甲府城の石垣は、穴太(あのう)積みと呼ばれる技法で構築。戦国時代の技術で、国内屈指の
物とか。自然石や粗割石を組み合わせ、ほとんど石材を加工しない状態で積み上げ、石材の隙間に、
小さい石である詰石を詰め、石垣を安定させているのが特徴です。

登城日 平成二十年(2008)九月十五日  作成日 平成二十年(2008)十月二日

朝9時45分、念願の甲府城にたどり着く。近くの民間駐車場に車を預け甲府城に歩き出す。
遊亀橋から正面に天守台がそびえ立つ。真っ直ぐ行けば天守台に上がれるが、あえて鍛冶曲輪から
数奇屋曲輪の方に進む。途中、石切り場跡で、当時の石切りの状態を残す貴重な遺構があった。

数奇屋曲輪から、稲荷曲輪に進んで行きボランテァ方から説明をして頂いた。
稲荷櫓は木造建築で、身体の不自由な方でも上がれるようなエレベーターがついており、無料で入れます。
この稲荷櫓からの眺めは最高で、城下町はもちろん、周辺の山々も見渡せる立地の良い場所に建っていました。

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