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長野県上伊那郡高遠町東高遠

高遠城

桜雲橋と問屋門

問屋門と桜雲橋

太鼓櫓

本丸内の野面積の石垣

高遠城楼門

南口ゲート近くから見えた高遠閣

高遠城に入る坂の入口にある案内版

諏訪(高遠)氏が築いた(あるいはさらにそれ以前)と伝えられるが、確実な資料としては
武田信玄による築城記録である。側近の駒井政武(高白齋)が記した「高白齋記」によれば
天文十六年(1547)三月に「高遠山の城鍬立」を行ったとされる。これが新築なのか改修なのかは不明である。
また、山本勘助による縄張りと伝えられているが、それも不明である。いずれにせよ、伊那谷に
おける武田氏の拠点として築かれたものである。

高遠氏は諏訪大社大祝を務めてきた諏訪氏の一門であるが、高遠頼継は諏訪頼重と反目しており
天文十一年(1542)の武田信玄による諏訪攻略を援護した。同年自ら諏訪家当主となるべく挙兵し
武田氏と対立するが、天文十四年(1545)、結局高遠城を武田氏に明け渡した。

永禄五年(1562)、諏訪頼重の娘(諏訪御料人、湖衣姫、由布姫)と武田信玄との間に生まれた勝頼が、
諏訪氏を継承し高遠城主となる。元亀元年(1570)、信玄嫡男の義信が廃嫡されると、勝頼は信玄により
後継者として躑躅ケ崎に呼び戻され、かわって高遠には信玄実弟の信廉が入った。
織田信長と武田氏の対立が激しくなると、高遠はその拠点として重要な地位を占めるようになる。
信玄の跡を継いだ勝頼は、1581年に異母弟の仁科盛信を高遠城主とした。翌八十二年、織田氏による
武田討伐により、三月に高遠城は落城。仁科盛信は五百名の家臣とともに二十六歳で壮絶な討ち死にをした。
その戦いぶりは「信長公記」にも賞賛されている。また、長野県民歌「信濃の国」の歌詞五番にも登場する。

武田討伐後、毛利長秀(秀頼)が城主となるが、その三ケ月後に本能寺の変で信長が滅ぶと
武田信玄の娘・真理姫の夫であった木曽義昌が高遠を占拠した。義昌は、信長の武田討伐前に、
秋山信友の守る美濃岩村城の支援を命ぜられていたが、財政的な理由でこれに反抗し信長方に寝返っていた。
その後、義昌は徳川家康との攻防に敗れ深志城に撤退し、高遠は保科正直が城主となった。
正直は、武田討伐の際、武田方の飯田城主だったが、織田軍を前にして城を捨て高遠城へ逃亡、
のち投降していた。

天正十八年(1590)に家康が関東に移ると再び、飯田城主となっていた毛利秀頼、ついで京極高知が城代を置いた。
慶長五年(1600)、関ヶ原の後は保科正直の子・正光がに万五千石で入り、正之があとを継いだ。
保科正之が三代将軍家光の異母弟であることが判明し、寛永十五年(1636)に山形の鳥居忠春と入れ替わる。
(正之はその後、寛永二十年(1643)に会津藩主となる。元禄四年(1691)、内藤清牧(きよかず)が三万三千石で入り、
以後明治維新まで八代続いた。

登城日 平成二十年(2008)九月十五日 
作成日 平成二十年(2008)九月二十三日

       朝二時半に自宅を出発して、伊那で夜が明けてきた。このまま甲府城に向うのも、もったいない
       感じもするので、急きょ周辺の城を探す。そこで浮上したのが、前々から訪れたかった高遠城!。
       丁度桜の時期も外れるので、訪れる人が少ないと考え登城してみた。
       その考えは、正解でした!。桜の時期は、車の行列でまえに進まない坂道が、いとも簡単に駐車場迄
       スンナリと進め、おまけに駐車場は無料となっていた。時期を外すと、こんな利点があるんですね。

       駐車場に車を停め時間を見ると、六時半過ぎ。それでも先客の車が四台いた。
       神戸ナンバーに品川ナンバー、皆さん遠くからご苦労さんですねぇ〜。

入城門に無料の看板。 多分に桜の季節はなが〜い行列ができるのでしょうね。
ここもフリーパス!。で、桜雲橋に向う。思っていた程広くは無い城郭で、入口から数分で桜雲橋に着いた。
橋の上から空堀を覗く!。続いて桜が咲いている事をイメージして桜雲橋を渡ると、これが桜の雲を渡る感じの橋か!。
桜雲橋を渡り、問屋門を見る。元の状態を見ていないが、見た感じ何かを外し、軽量化しているように思えた。
埼玉の土屋陣屋の門を思い出す。同じように飾り物を外してスッキリしているように思えた。違っていたらごめんなさいm(_ _ )m
続いて太鼓櫓の方に進む。何となくバランスの悪そうな太鼓櫓をみて、地震が来なければ良いのになぁと思うが
歴史があるように思う太鼓櫓に見惚れていた。30分〜40分で城郭を見て周り、甲府を目指し車に飛び乗る!。
しかし、桜の満開のときを想像しながらもう一度訪れたいなぁと思い、アクセルを踏む     _/ ̄ ̄\_    
                                                      └-○--○-┘=3      

              桜

古くから伊那谷の要所であった高遠城は、武田方仁科五郎盛信と織田信忠の攻防を最後に、
戦乱の時代に幕を閉じました。 明治に入り、城は取り壊され城址公園となり、現在1,500本以上の
タカトウコヒガンザクラの樹木を保護しています。

老木には樹齢100年を越えるものもあります。花形は、やや小ぶりで赤みを帯び、その華麗さと
規模の大きさは「天下第一の桜」と称されるほどで、県の天然記念物の指定を受けています。
高遠町では、桜の美しさを後世に伝えるべく桜憲章を定めて、保護育成に努めています。
また、平成二年には、日本さくらの会の『さくら名所百選』に選ばれています。

        城 歴
街道の抑えとして築城はかなり古いが定かでない。
戦国期には天文十六年(1547)武田信玄が山本勘助に命じて整備させたと伝えられている。武田氏滅亡後、
保科・鳥居と城主が替わり、元禄四年(1691)より明治4年まで百八十年間、内藤氏三万三千石の居城である。

さて、天正九年三月(1581)高天神城を徳川方に陥され、武田勝頼の信頼低下と併せて領国に動揺が広がり
翌天正十年一月に木曾義昌が離反し信長方についた。天正十年二月ニ日、勝頼父子・典厩は新府城より出陣し
一万五千で諏訪の上原で陣を構えた。信長は伊那口から長男信忠勢を送り込み、滝沢城・飯田城・松尾城・大島城の
武田方は大軍に恐れをなし城を捨てあるいは降伏した。二月二十五日、一族の穴山梅雪勢が甲斐国府中に人質として
置かれた妻子を盗み出し、この穴山の逆心を聞き、勝頼は二月二十八日に諏訪の上原から新府城に引き上げた。

このような中で、勝頼の弟の城主:仁科五郎盛信は、討死を覚悟で三千の手兵で五万の大軍を向かえ撃った。兵力の
差はいかんともし難く、三月ニ日、城主盛信はじめ兵のすべてが討死した。なお、城の桜は見事の一言につき
盛信ら三千の兵の血が桜に乗り移ったと伝えられている。

築城年:天文16年(1547)
築城者:武田信玄

≪平山城≫

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