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躑躅ヶ崎館

《武田氏館》

城  主:武田氏、河尻氏、加藤氏、浅野氏
所在地:山梨県甲府市古府中町

躑躅ヶ崎館から武田通りが2km甲府駅まで続く

この奥に天守台があるらしい

土 塁

大 手 門

躑躅ヶ崎館は、永正十六年(1519)に武田家十八代当主である武田信虎によって築かれました。
もともと武田氏の居館は石和にあったのですが、信虎によって甲斐国内の敵対勢力が平らげられ
甲府盆地全体からみればやや東寄りに位置したそれまでの場所から、ほぼ中央に相当する場所に
移動したものです。
 
『甲陽軍鑑』には、『城郭を構えず、堀一重の御館に御座候』と記されています。
土塁や堀などは存在した事がわかっていますが、館という名が表すように戦時の拠点というよりは
むしろ甲斐の国主である武田氏の執政所というべき建物であったようです。有事の際には
躑躅ヶ崎館背後の山中にあった要害山城(甲府市積翠寺町)が拠点となっていたらしく
戦の最中に生まれたという武田晴信(後の信玄)の出生地も、要害山城だとされています。
信虎時代から60年余りに渡り武田氏の居館であった躑躅ヶ崎館跡は、勝頼の代に放棄されています。
その後、甲府城が建設された時に、完全に破却されました。   現地案内版より

信玄の跡を継いだ武田勝頼は天正三年(1575)の長篠・設楽ヶ原合戦で織田信長・徳川家康連合軍に
惨敗し勢力が衰えると、重臣の穴山信君の進言で居城を韮崎の七里岩に移すことに決め、真田真幸を
普請奉行として新府城を築城、天正九年(1580)十二月に居を移した。古府中の躑躅ヶ崎館は、移転に
反対する重臣たちへの心理的な圧力として、徹底的に破却された。


天正十年(1582)に織田信長・徳川家康の連合軍の侵攻によって武田氏が滅亡し、織田信長配下の河尻秀隆が
甲府に入ったが、六月二日の本能寺の変で織田信長が死去すると甲斐国内に一揆が起こり、六月十五日
河尻秀隆は殺害された。その後の武田氏遺領を廻り、徳川家康と北条氏直が戦うが(天正壬午の乱)
和睦により甲斐は徳川領とされ、躑躅ヶ崎館には仮御殿が造営され、平岩親吉が城将に任じられたが
天正十一年(1583)に一条小山に甲府城を築城開始、天正十八年(1590)の小田原の役で家康が関東に
移封されると甲府には羽柴秀勝が任じられ、甲府城を完成させて移ったため躑躅ヶ崎館は廃城となった。

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登城日 平成二十年(2008)九月十五日 作成日 平成二十年(2008)十月三日

甲府城から武田通りを進み武田神社(武田氏館)に突き当たる。堀沿いに無料の駐車場が完備されている。
境内内にお参りする方のみの駐車場もありました。甲府に来て感じる事は、武田カラー一色で、統一されている!。
当日は、お宮参りが多く、駐車場も大いに賑わっていた。その間をすり抜けて、境内を散策!。
次回は、天守台を是非見たいもんだ!。次は要害山城に挑む!。

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