古志景勝 こしかげかつ
尼子氏家臣。備後沼隈郡本郷城主。のち大内氏に転じ、天文十三年(1544)宮氏の拠る新市亀寿城攻め、
天文十七年(1548)山名理興(杉原理興)拠る神辺城攻めに従軍した。
継嗣豊長は毛利氏に属したが、小早川隆景により謀殺。備後古志氏は滅んだ。

古志重信 こししげのぶ 
尼子氏家臣。古志吉信の男。通称新十郎。官途は出雲。出雲神門郡古志郷浄土地山城主。
備後の古志景勝・豊長は同族。天文旧年(1540)の吉田郡山合戦に従軍し、永禄三年(1560)には本城常光の
守備する石見銀山の救援にも赴いた。永禄十二年(1569)尼子勝久らの蜂起に参加し、出雲十倉城を守ったが、
翌年吉川元春の攻撃を受けて降伏した。天正六年(1578)の上月城攻めでは毛利方として従い、
かつての盟友山中鹿之介らと戦った。

広島県〜岡山県の城巡り

阿草城

広島県尾道市高須阿草城山

◎ 新庄本郷の城主・古志豊長の武将・古志景勝が拠っていたという。 城郭大系より

三原城

広島県三原市館町城町

登城日 平成十九年(2007)五月三日
作成日 平成十九年(2007)五月十三日
編集日 平成十九年(2007)五月十四日

三原城は毛利元就の三男小早川隆景が築城したものである。
隆景は天文十三年(1544)竹原小早川を相続し、ついで沼田本郷の総領家をも継ぎ、
両家を合わせ、安芸国東南部を領有する大勢力となり、本郷高山城本拠とした。
天文二十一年(1552)には沼田川を挟んだ対岸に新高山城を築き、
ここを本拠に毛利と協力して活躍している。
小早川は早くから瀬戸内海に発展し、芸予の海賊衆を支配し、
制海権をにぎっているが、海岸の水軍城として沼田川河口の三原を築き、
新高山城を移して、軍港を兼ねた城郭となし、本拠としている。

私見

早朝『1時30分』自宅を出発、三原城を目指す。
名神自動車道、茨木インターより入り、中国道〜山陽道を順調に進み三原城に来た。
6時半より天守台に上がれるので時間調整のため周辺を散策する。
JR新幹線・三原駅南側にも石垣・堀が現存し、その広大な城郭を想像できた。
6時半が過ぎ、天守台に向かう。前回来た時に、お巡りさんにお聞きしたように
有料駐車場を横目で見、そのまえの送迎停車場に車を停め、天守台に向かう。
階段を上がり、三原城天守台と書かれた左側のドアーを開け、石段を駆け上がる。
そこは、天守台中央で、丁度山陽新幹線が天守台の真ん中を切り進んでいる!。
時代の流れと言うのか、やりきれない気持ちが込上げてくる!。が、仕方が無い事だ。
天守台からの眺めは爽快で、今日の城巡りの1番目の城として気持ちよく登城できた。

私見

三原城より福山城に向かう途中、ナビに映し出された城である。
資料は無いが、いつものように途中に見つけた城は登城すべし!。と、阿草城にハンドルを切る。
だが、この阿草城は手強かった!ナビに映る阿草城を目指し進むが
ナビにでている道はゴルフ場となっていく手を阻む!
仕方なく、反対側に回り込む。ここも城山麓まで来たが、椎茸山になっているので入山禁止の看板に断念!
再度、周りこむ。地元の方にお聞きするが、昔は上がれたが、今はとうてい無理との事。
2時間余り登城に試みたが、この城には登城できなかった!石垣と山全体の写真だけで残念

阿草城の城山と城下町

阿草城の石垣

満々と水を貯える堀と石垣

天守台から見た堀とJR新幹線

城主・古志景勝

福山城

広島県福山市丸の内一丁目

福山の地は瀬戸内海の中央、于満潮の分岐線上の山陽道側の中点に存在し、
古代から潮待ちの港が存在する航路の重要港湾であった。
この湾内に、芦田川が中国山脈の水を集めて流れ下り、土砂を運んで
扇状地を進展させていた。
中世に入ると福山城が築城される孤島を中心にデルタが発展し、ここ木之庄・
吉津庄の荘園が形成された。
元和五年(1619)改易となり、譜代の重臣で徳川家康とは従兄弟にあたる水野勝成が
備後南部十万石の地に封ぜられたのである。
瀬戸内海から九州にかけての西国には毛利や島津などをはじめ、外様大名があふれ、
これらの東上を阻む西国鎮衛の幕府防衛の拠点が必要であった。
当時取り壊されていた伏見桃山城の櫓や門・塀を運んで新城建設を助けたのである。

私見

2年前に一度来ているが、天守には上がっていない。午前9時過ぎなので天守に上がる。
五層五階地下一階の天守、この福山城でもカメラでの撮影は禁止!。まぁ撮るところも無いがね
どうして現存天守が撮影でき、コンクリートの建物が撮影禁止なのが分からない!!。
天守最上階で撮影して、早々に引き上げてきた!。
本丸広場では、ボランティアの方が説明会の準備をされていた。
一人の方が、案内をすると言って下さって、その案内して下さる方のあとに続いて歩く。
伏見櫓と筋金門だけが現存する、と説明をうける。30分ほどの説明をうけ、次の笠岡城を目指す。

天守から本丸を望む

筋金門の超特大の肘壷金物

笠岡城

 岡山県笠岡市笠岡城山

 備中松山城

岡山県高梁市内山下

有漢常山城

 岡山県高梁市有漢町有漢字土居

 津山城

岡山県津山市山下

もともと島であったこの地に築城したのは水軍村上氏で、瀬戸内海に浮かぶ海城の一つである。
毛利氏が中国制覇を目指して東進していた天文二十二年(1553)陸上では備中南部を制圧し、
海上からは村上水軍がこれを助けた。
永禄十年(1567)能島村上氏の村上武吉は笠岡の地を与えられ、港の出口にこの城を築いたのである。
しかし、村上氏はその後安芸に移され、慶長三年(1598)毛利元康が笠岡城主となるが、
関が原合戦後毛利氏の移封で退城。かわって、小堀、池田氏が入城するも、元和四年(1618)廃城。

私見

前回は時間の関係で登城できなかったが、今回は、楽しみにしていた笠岡城に登城できる!。
笠岡駅沿いの神社の鳥居のところに車を停め、登城しょうとしたが、どう見ても車が道路にはみ出している。
仕方なく、駐車場を求めて移動していると、城山公園の看板を発見!。
もしかして、車でいけるかも?の考えがあたり、頂上の駐車場に車を停めれた!。この時間の短縮は大きいぞ!。
だが、残念ながら遺構を見つけれなかった。あれだけ楽しみにしていた笠岡城だけど。
本丸を4mも削平されたらしかたがないか。でも、頂上からの展望は素晴らしかった!。

この地は早く承久の乱に相模の豪族三浦氏の一族・秋庭三郎重信が軍功により備中中国有漢郷の
地頭として入国し、仁治元年(1240)この郷を見下ろす天剣、臥牛山上に山城に構築したことに
始まるといわれている。もっともこの時の城は、大松山の頂上を削平し本丸を置いたが五代を経た
元弘年間(1331〜33)には、その南峰小松山にまでも城地を広げている。

私見

今回は4度目の登城となるが、今までとは勝手が違った。まず、下の駐車場からシャトルバスで
中腹の駐車場まで行き、そこから徒歩で行く。と、今までの登城の仕方とちょっと違った。
シャトルバスに乗り込み、登城道をバスで行く。これもまた良いもんであった!。
終点の山腹の駐車場から遊歩道で登城する。約20分で本丸に着く。
回数を重ねる事に近いように思うのはどうしてかな?

笠岡城の由来書

笠岡城の本丸からの展望

有漢常山城は、秋庭氏居館の南、有漢川を隔てた山頂(標高265メートル)にあった山城である。
周囲の比高からすれば小山と表現した方が適切な山塊頂部には二段の帯郭を付設した単郭の
構えがみられる。主郭は長方形で、南辺には幅狭く一直線に走る一文字土居を残している。
西辺にも微高の土塁基部があるが、郭の四周を土塁が取り囲んでいたかどうか、現状からでは
明らかではない。当城の北面と西面は峻険な地形で、南の後背部も急傾斜で下降し狭い鞍部へ
とつながっている。鞍部の西側には深い谷筋が入り込み、鞍部は幅約5メートルの二重堀で
切断され、後背部もなかなか堅固な構えをとっている。この城には天正年間(1573〜92)に
新山玄蕃允家住が在城していたと松山城の『籠城記』に記されている。
                                      『有漢常山城跡案内板』より

私見

設備の整った城である。大きな無料の駐車場に、その側に風をテーマにした石のオブジェが建ち並ぶ。
天守の端に駐車場があり、山城に来た感覚は無い。山城の場合は、標高を見て想像するが、
比高も見ていた方がいい場合もある。まさにこの有漢常山城も当てはまる城だと思う。

搦手の石垣

天守から櫓を見る

駐車場からの天守

天守から駐車場を見る

本能寺の変で討死した森蘭丸の弟、森忠政が慶長八年(1603)に入封した翌年から十三年の
歳月を費やして築いた津山城は、鶴山城ともいわれ、典型的な平山城であり、津山盆地の中央に
位置する。高くそびえる石垣は津山市のシンボルであり、国史跡の城跡は鶴山公園として整備され、
桜の名所にもなっている。
 建造物は、明治の廃藩置県後に売却された後に取り壊された。昭和十一年、天守閣は津山で
博覧会が開催されたの機会に一度再建(模擬的に)されたが、昭和二十年に、米軍の空襲の
目標にされる心配から解体されてしまった。丁度その当時,岡山城が空襲の目標になった
事実を踏まえての事ではある。

私見

さて、今日の最後の城、津山城にやって来た。城内の駐車場に車を停め(大きな駐車場に1台だけ)
前回登城の時、備中櫓は建設中だったので今回は完成された備中櫓を見に来た。
いつもの大手門からの登城で、大手門を過ぎ目の前に備中櫓が見えた瞬間!。凄い。
はやる気持ちを、櫓の側の古木の藤の花が気持ちを落ち着かせてくれる。
小高い山の中腹に建つ櫓の横にベンチが設備され、そこに座れば城下町が一望できる。
夕方の津山の城下町を眺め、今日の城巡りを振り返り、最後に津山城にして本当に良かったと思う!。

築城者・山名忠政

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築城者・小早川隆景

築城者・水野勝成

築城者・村上武吉

築城者・秋庭三郎重信

本丸から備中櫓を見る

福 山 城

備 中 松 山 城

筋金門の乳金物

新しく作った金物

現存の金物

壷金

肘金

八双

壷金

肘金

鏡柱

軍師のパァ

軍師のグゥ

岡山自動車道入口へ

鏡柱

福山城の天守

はじめて載せた息子の後姿

息子の手

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