№396
東京ぶらっと巡り
平成22年4月17日
稲付城
志村城
赤塚城
石神井城
№397
№398
№399
再訪
再訪
将軍塚
江戸という地名の語源は『江の戸』すなわち、入江に臨んだ地点という
意味だという。この地に初めて城を築いたのが秩父重継で、平安朝末期
ことであった。今の皇居の本丸あたりとされ、四方に堀をめぐらし
物見用の櫓を置いた簡単な形式であった。
武蔵野台地の東部を西から東へ貫流する石神井川の中流域、旧豊島郡
の西端近くに位置する城である。この城は、平安末期から室町期にかけて
一帯に蟠踞した豊島氏の居城の一つである。
板橋区立郷土資料館の背後、城址公園となっている丘が中心部跡である。
よく注意すると埋れた空堀が周辺をめぐっている。豊島氏の庶流赤塚氏の
居館であったが、文明九年(1477)四月、太田道灌が豊島泰明を赤塚城に
攻めた時、泰明はじめ赤塚氏ら百五十余名が討死した。
豪徳寺の東隣にあり、現在、区立世田谷城址公園になっている。
源義家の流れをくむ吉良治郎大輔治家から八代、二百四十年にわたって
栄えた吉良氏の居城であった。
武蔵野大地の端、奥州へ向かう街道に面し、水陸交通の要衝として
栄えた岩淵宿を臨むこの地は、砦や館構えるには最適の地でした。
史料の伝えるところでは道灌の主君上杉氏の砦としてその名がみえますし
道灌の孫資高、その子康資の二代にわたり岩淵の領主とおしてこの地に
館を構えました。その後、小田原北条氏の砦となりました。
江戸城の堀から隅田川に注ぐ日本橋川に架かる日本橋は、慶長八年(1603)に
創建された。長さは三十七間四尺五寸(68.6m)、幅は四間二尺五寸(8m)の
木橋であった。その後19度も架け替えられ現在の御影石造の二連アーチ橋は
明治四十四年(1911)に建造されたものであり、平成十一年(1999)に国の
重要文化財に指定された。
千代田区大手町1-2-1
神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首をお祀りして
あります。平将門公は、承平天慶年間に活躍され、武士の先駆けと
して関東地方の政治改革を行いました。弱きを助け強きを挫くその
性格から民衆より篤い信望を受けました。またこの地は神田明神創建
の地でもあります。毎年九月彼岸の日には『将門塚例祭』が執り行われ
また五月の神田祭の時には必ず鳳輦・御輿が渡御して神事ご行われる
重要な場所です。