日本城巡り
広島城

≪鯉城≫

昭和33年

外観復元

広島県広島市中区基町

天正十九年(1591)

築城者・毛利輝元


009

広島城
福山城
三原城

戦国時代の終わりに、中国山地の小盆地吉田荘の一地頭

から身を起こし、一代にして中国・四国・九州におよぶ

九ヵ国を平定し、百十二万石の大大名に成長したのが

毛利元就である。その後を継いだ輝元の代に、本拠地で

あった山間の吉田郡山城を捨て、領国の中央水陸両用の

交通の要衝である瀬戸内の広島湾岸に鎮衛の城郭を築き

城下町の形成を企図したのである。彼はたまたま

天下一統の豊臣秀吉の招きに応じて上洛の際、

聚楽第や大坂城見てその支配の在り方に触れ、おのが

領国再編の核として、新しい城と城下町形成を決意したと

伝えられる。

そして天正十七年に築城に取りかかっている。もともとこの

広島は中国山地から流れ下る太田川河口に開けたデルタで

毛利元就時代から瀬戸内海への出口として領有されていた。

太田川河口は幾条にも分流し、その間に中州が発達し、五個の庄と呼ばれた。ここに城を築き城下町

形成をするために、『島普請』と呼ばれる土地構成が、大規模に行われた。

天正十九年には早くも天守は完成し、輝元は早速入城し、一応の完成を見た慶長四年(1599)の正月

盛大な落成祝賀の宴が張られている。

2000年12・02の登城の天守

2005・04・10の登城の天守


登城日2000・12・02  作成日2001・01・18  編集日2006・05・06
登城日2005・04・10  作成日2005・05・07  編集日2006・05・06

登城日2006・07・17  作成日2006・07・23  編集日2006・07・23

2000年の登城の時はあわただしく、忘年会までの時間と限られていたので後ろ髪を引かれる思いで

見て周った。2005年は時間が十分にあったので、城の外に目を向け碑を中心に見て周った。

南外濠南西角に立つ碑・京口御門跡の碑・八丁堀と南外濠の交わる地点の碑と太田川を外濠として、

12基の櫓跡を見て周わると、半日があっというまに過ぎてしまい岡山の備中高松城に向かった。

次の登城の時は縮景園を見てみたい。

入城料320円

広島観光協会 082-247-6738

私見

2006年7月17日に三度目の登城チャンスが訪れる。

朝5時に岡山を目指して自宅を出発。名神自動車道〜中国自動車道〜山陽道と乗り継ぎ

7時30分、岡山インターに着くが、豪雨で登城には適していない。ふと、西の空を見ると、明るい

息子に、広島に変更と伝えると、しばらく返事が返ってこなかった。が、空も明るいから、

今日の登城予定の変更を話し合いながら広島城を目指す。9時前に広島城前に着き、市営駐車場(地下)に

車を預ける。天候晴れ!登城開始今日は、天守を中心に探索。築城当時は天守前の広場に櫓が建っていて、

その櫓の二階から天守に入れたそうだ。その後、多聞櫓を見て、二の丸からの退城となった。

2006年・天守から内掘を見る

2006年多聞櫓の内部

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