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米子城
≪久米城≫
鳥取県米子市久米町
天正十九年(1591)
築城者・吉川広家
米子城天守台
天守台から大手門跡見る
天正十九年(1591)頃、【吉川広家】が中海に面する
湊山に着手し四重の天守を築くが、未完成のうちに
慶長五年(1600)の関が原の戦いにより転封となる。
同六年【中村一忠《忠一ともいう》】が移封され、幼少
であることから家老の【横田内膳村詮】の補佐により
東側の飯山《妥女丸》と西北の丸山をも取り入れて
翌六年完成。本丸には新たに五重の天守を建立し、
北側の山裾に二の丸を築いて城主の居館とした。
その下方の三の丸には作事場・米蔵・厩などを建て
内掘を巡らし南と西には海に通じた。
さらに北側には惣構として外堀を巡らし家臣の屋敷
を置いた。本丸の東下には中海に面して深浦御殿と
称する曲輪を築き舟手《水軍》の根拠地とした。
正・福天守と櫓十八・門十三を有したといわれる。
同八年【横田村詮】は【一忠】に殺害され、その際の戦い
により妥女丸は焼失し以後再建されなかった。【中村氏】の断絶後、【加藤氏】《貞泰家》を経て
元和四年(1618)鳥取池田氏《利隆家》に属し、さらに寛永九年(1632)《因幡池田家》と《備前池田家》の
国替えにより同六年以降【池田氏】《忠雄家》の家老【荒尾氏】が在城。明治二年五月二十八日
鳥取藩施政局は【荒尾工之助《成富》】に米子城の返上を命じ、同年八月に荒尾家から藩に引き渡す。
私見・登城日2004・04・25 作成日2004・05・07 編集日2006・05・05
米子城の所在地が分からないので、米子駅前のポリーボックスに駆け込む。年配のお巡りさんから
米子城の詳しい説明を聞けた。
天守は三重と四重の二つの天守があがっていた。建物は明治に入ってお風呂屋さんが2円50銭で
引き取り、風呂で燃やしてしまった。現在の登城は、搦め手からの道案内なっているが、搦め手から
320m行けば大手道がある。その前が侍だまりがあるから、そちらからの登城がベストと教えてくれた。
お礼をいい、アクセルを吹かす。搦め手確認。侍溜り確認。市営無料駐車場まで50m。100台は停めれそう。
大手道からの登城。20分で山頂の内膳丸に到着。思っていた以上の遺構に感激!。強風をも忘れて
石垣を見つめていた。そうだ!、お巡りさんが言っていた。埋もれていた石垣の石を一つ一つ積み直したんだよ。