№101
江美城
鳥取県江府町城山
文明十六年(1484)
築城者・蜂塚安房守
伯耆国江美城は、蜂塚氏初代城主・安房守によって開創され、
文明十六年(1484)と伝えられている。
江美城は、自来、二代三河守・三代丹波守・四代右衛門尉と
八十年有余年にわたって、続く動乱の時世に処し堅固な要害と、
有力な武力を保有し特に城下領民を育て、鉄山と開田の技術を
家業とする、和戦兼備の特色のある蜂塚氏一門の居城であった。
尼子・毛利の攻防が続く中で毛利の軍義は、江美城・蜂塚氏一門
の鉄の技法?を先発するに決し毛利の副将【吉川元春】は城兵
三千に鉄砲隊を差し向け、その采配を杉原氏に命じた。
この日、覚悟を決めた城主・蜂塚右衛門尉は、この大軍を
迎え討ち、奮戦敢斗死カをつくすも衆寡敵せず、遂に自ら
城閣炎上を命じ、割腹して城と運命をともにしたのであった。
城主の壮絶な自刃を見て、家臣郎党ことごとく城主の後を追い、
江美城は、ここに落城したのであった。
時に永禄八年(1565)八月六日の朝であった。
私見・登城日2004・04・25 作成日2004・05・04 編集日2006・05・05
勝山城に登城して、またまた、ナビに城跡が映り出される。すかさず登録し、ハンドルを江美城に向ける。
坂道の道幅が狭く、タイヤの位地を気にしながらナビを見つめる。照明が無ければ、目の前に誰かが
立っていても分からない状態の中、櫓に向けてサーチライトのかわりにヘッドライトを向ける。これで写真も
撮れるし、辺りの状態も分かってきた。ビデオ・カメラの撮影終了して周りを見る!。早急に撤退~!。
帰って、資料から西門坂を車で上がったようだ。 早朝3時過ぎ、気温3度の城跡は不気味でした
遺構 本丸跡・東櫓・西門坂・犬走り・抜け穴
櫓風 資料館
江美城の由来書