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富田城
月山
島根県能義郡広瀬町富田
≪月山城≫
保元年間(1156〜59)
築城者・悪七兵衛平景清
月山富田城は戦国を代表する巨大山城である。
その歴史は平安時代末期に溯るとされるが、
巨城への進化したのは尼子氏三代【経久・晴久・義久】
が出雲守護の京極氏を倒し、最盛期には十一カ国を
支配したといわれるほどの戦国大名へ成り上がると、
富田城は山陰の覇者の本拠にふさわしい威容を整えて
いった。
天文十一年(1542)春、大内嘉隆は中国の覇権を巡って
死闘を繰り広げていた尼子晴久を倒すため、本拠の山口
を出陣。数万の大軍を率いて富田城に攻め寄せるが、
翌年五月、攻略を断念して本国へ撤退する。その途中、
尼子勢に追撃されて、算を乱しての敗走を余儀なくされた。
毛利元就による出雲進攻作戦が本格化するなか、晴久が
病没。
嫡男の義久が尼子氏の当主となるが、永禄六年(1563)
十一月より、毛利勢による富田城攻略作戦が開始された。
元就は、大内嘉隆の失敗を教訓とし、出雲国内における尼子氏の支城を攻略。富田城周辺に包囲のための
付城を築くなど、万全の態勢を整えながら、包囲の輪を除々に縮めていった。
永禄九年(1566)十一月、義久は兵糧も尽きた事から降伏を決意し、富田城を元就に明け渡した。
以後も山中鹿之助らは、尼子氏に再興のためも毛利しと戦い続けるが、富田城陷落により、尼子氏は事実上
事実上滅亡した。
私見・登城日2004・04・25 作成日2004・05・01 編集日2006・05・03
6時30分大手道よりの登城開始。赤門をくぐり、堀尾吉晴の墓に参って、準備が整い歩き始める。
20分ほどで千畳平に着く。これより軍事道を経て15分ほどで頂上の本丸に着いた。
桜が満開なので桜の下で記念写真を撮った。全体的には、山城に来たという感覚は持てない。
よく整備されハイキングコースで楽に上がれる山城であった。
車は、赤門の前の100台は停めれる無料駐車場がある。