第三弾 埼玉・長野県の一人旅

2007年5月26日午前0時が過ぎ、一人旅のはじまりだ!
名神自動車道、山崎インターより入る。
名古屋が過ぎ、東名高速に乗り継ぐ
車・体とも調子は絶好調である!このまま第一番目の目的地
埼玉県大宮市の氷川神社に車を進める
順調に進み、静岡県に入り夜が明けてきて車が少し多くなる
前方に富士山が見えてくる。富士山の麓の雲海がとてもきれいだ!
時計を見ると、4時28分。スピード計は127km。車・体とも快調だ!

7時08分、埼玉県大宮市の氷川神社に無事到着。
中山道がこの氷川神社の『一の鳥居ひろば』のところを通っていた
という事で確認しにやって来た。
この『一の鳥居』を氷川神社に向け参道を歩くと、左斜めに入る
一方通行がある。この路が中山道である。
交番所のお巡りさんに説明をして頂いた。
この時期はカラスが凶暴になり、一の鳥居附近でカラスが急降下して
人間を威嚇するとの説明もして頂いた直後、カラスが後から
お巡りさんめがけて急降下!お巡りさんの帽子は参道に落とされ
一瞬、私はお巡りさんが拳銃発砲するでは無いかと思うほど
お巡りさんが怒っていた!が、その時の写真が無いのは残念
!!
というか、写真を撮っていたら私が銃殺されたかも分からないような状態だった!
その後は、元のにこやかな優しいお巡りさんに戻ったことを付け加えておきます。

忍城

埼玉県行田市本丸

《亀城》

築城者・成田下総守顕『親』泰亭
文明年間初期(1469〜)

忍城の水攻め

忍城の築城時期は諸説あるが、おおよそ十五世紀後半に
成田氏によって築かれたと考えられる。
成田氏は天文十五年(1553)以降は後北条氏の配下となるが
敵対する上杉謙信によってしばしが攻撃をうけている。
忍城の歴史でもっとも著名なのは、天正十八年(1590)に
行なわれた水攻めである。
豊臣秀吉は後北条氏の本城である小田原城と共に
その領内の支城群も攻撃対象とした。
忍城は周囲を沼地で囲まれており、外側からは直接攻め寄るのが
難しい立地になっていた。
秀吉の命を受けた石田三成・長束正家らは、忍城の周囲を堤によって
囲い込み、そこへ元荒川から水を引き込んで孤立化を計ったのである。
しかし、水攻めの最中に堤が決壊してしまい、結果的に水攻めは失敗した。
城内では城主・成田氏長が小田原に参陣して不在ながらもよく健闘し
最終的に開城したのは小田原城開城ごであった。

私見

登城日 平成十九年(2007)五月二十六日 作成日 平成十九年(2007)五月二十七日

駐車場に車を停め、博物館に入ろうとして、後を振り向くと本丸跡の碑が建っており、戻る
門をくぐれば、右に博物館が見えてくる『
入場料300円』甲冑の催しをやっていた。
そのまま進み左隅に鐘楼が見えてくる。城内は人影も少なくゆっくりと散策できた。
この忍城で遺構がかなり残っているのには驚いた。
石田三成が水攻をした時の堤・陣跡、それから本丸土塁と、見るだけでも胸がドキドキする!
約2時間、時間の過ぎるのも忘れ、城内を散策でき、この忍城も忘れる事のできない城だ。

氷川神社の参道にある碑

東名高速

川越城

昭和63年に復元された天守

《霧隠城》

築城者・太田道真・道灌
長禄元年(1457)

城の創築は、長禄元年(1457)にさかのぼる。
関東管領・扇谷上杉氏の家臣であった太田道真・道灌父子が、
古河公方足利成氏に対抗するため築いたと伝わる。
城は、古河公方勢力に対する前線基地の役割を果たすものであった。
その後、扇谷上杉氏がこの城に入城。
六代八十年間にわたり城主として君臨した。

私見

今回で6度目の登城となったが、一度目の時は周辺の道路を整備中で
なかなか駐車場に車を停めれないじょうたいでした。
最近は周辺の道路も広くなり車で来るにも楽になりました。
時間が早い時は近くの駄菓子屋さん、又はお寺を巡ったりしていたが
本日は、この後 長野県に向かうため御殿のみで切り上げた。

川越城を見終え、長野県の松本城へと車に乗り込む。
関越自動車道に乗りアクセルを踏む!案外車の通行が少なく安心する
長野自動車道に乗り継ぎ、松本近くに来た時は1時を過ぎていた!
松本出口より一般道に降り松本城を目指す。

名神・東名高速道

関越自動車道・長野自動車道

関越自動車道

松本城

埼玉県川越市郭町

《深志城》

氷川神社参道

長野県松本市丸の内

松本城 一階の柱群

築城者・石川数正
慶長二年(1597)

城郭は本丸を核に二の丸・三の丸が囲む輪郭式縄張で、
面積はおよそ十二万坪(およそ四十万平方メートル)に及ぶ
築城は信濃守護職小笠原長長が、守護所の井川館より
居城を林城に移した折、深志城の地に館を構え、坂西氏を
城代としたのが始まりという。
天文十九年((1550)武田晴信(のちの信玄)は林城を攻略し
中信地方の府城として深志館を城郭に改築。
城代に馬場美濃守を配して、深志城と称した。
後に紹介する三の丸の馬出などは、武田氏時代の構築である。
信玄亡きあと、織田信忠が攻略。
小笠原貞慶が城主になり、深志城を松本城と改称。
天正十八年(1590)、石川数正が入城し、同二十年より城の
改築に着手。子康長の時代、慶長二年(1597)現存する天守が完成。

私見

松本城はいつ行って見ても、気持ちが落ち着き心を癒される
現存天守には、凄いパワーがあり登城する人にそのパワーを
与えているように思われる。

高島城

《浮城》

築城者 日根野高吉
文禄元年(1592)

長野県諏訪市高島

松本城を見終え、素早く車に乗り込む。時間との勝負、高島城に向かう
長野自動車道でアクセルを強く踏む!目指すは高島城
長野自動車道から中央道に乗り継ぐが、これがまた東京に向かって走る事13km
この我が家と反対方向に向かって走る何とも言えない気持ちは何であろう?!。
諏訪で降り、一般道が車が多くなかなか進めない。目の前の橋を右折して3kmで
着くが、その間の時間の長いこと!。

長野自動車道・中央道

高島城を築いた日根野高吉は美濃出身で、織田信長と豊臣秀吉に仕え、
安土城と大坂城の築城に加わったといい、この地に三層の天守を持つ
本格的な平城をつくった。
文禄元年(1592)に着手したが、朝鮮出兵のどのため、完成したのは
慶長三年(1598)である。
諏訪のあちこちらから適材を集め、とくにほど近い金子城は、解体して
石垣まで運ばせたといい、金子城址には何も残っていない。

私見

本日最終の城、高島城が目の前にある。今日は祭りで賑わっていとようである。
私が着いた時は、祭りも終わり皆さん後片づけの真っ最中!
天守を見上げると、扉を閉めている人を見ると寂しいかんじもするがぁ
取りあえず、天守の写真を撮るべきカメラを片手に走り回る!
想像していた高島城と、ちょっとちがったかなぁ?

5時37分高島城を見終え、中央道で我が家を目指して走る!。
充実した一日であり、満足できる走りもできました
久し振りの一人旅、少し不便な点は仕方が無いが良く走り回りました
我が家には21時45分に無事到着 走行キロ1368kmとなり
一日の走行キロ、2001年の1236kmを更新しました

名神自動車道のトンネル

中央道・名神自動車道

出店前から高島城の天守を望む

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入城料-520円

富士山

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