この茨木川をはさんで付近一帯を「白井河原」といい、茨木・
伊丹両氏と池田氏とが歴史上の合戦をしたところです。茨木方を
支持する和田伊賀守惟政と池田方の荒木摂津守村重・中川兵衛ら
池田二十一人衆との対立となり、元亀二年(1571)八月、ついに
激突しました。この時和田勢五百余騎が相対しましたが、和田軍は
まだ戦列が整いませんでした。そこで部下の一人、高利平大夫
(郡兵大夫)が時間かせぎをしようとしましたがその計略がみやぶ
られたため主君惟政に「多勢に無勢・・・」などと進言しました。しかし、惟政これを聞き入れず、後続軍の到着を待たずに二百余騎の少
数で激突しましが、この時惟政は、池田方の武将・中川瀬兵衛に討ちとられました。主君を失った和田・茨木の郎党は「主を討たせてどうして生き残れようか」と切って出て討ち死にしたので、「白井河原は名のみにして、唐紅いの流れとなる」ほど染まったそうです。
茨木養育委員会 現地案内板より
耳原城
現在、耳原城跡の場所は明らかではないが、古記録をまず紹介しておこう。
◎東摂城址図誌 - 明治時代に発行・東城兎幾雄編
耳原砦址 - 在島下郡耳原村字城内
此砦ヲ耳原ノ塁ト称ス
天正年中明智日向守光秀ノ築ト称ス
方今竹林ト成テ三方二堀ノ形ヲ今猶在ス
◎耳原村誌 - 明治12年11月発行
砦城古址- 本村の中央竹林の内にあり、(中略)方今三方に堀の跡在す。
◎摂陽群談
武城旧記に伝く。天正年中明智日向守在城以後織田辰之助皆原に在城と
あり。耳原世俗耳原と称す。なお、大阪府全志、摂津志にも
同趣旨が記されている。要するに天正年中(1575)頃に明智光秀が耳原の
中央で築いた塁である。その後、織田辰之助が居ったというが定かではない。
今は竹藪となり、まわりには堀の跡が残っているというが、
現在ではその場所すら明らかではない。
付 糖塚
糖塚は、耳原の西北で北中学校の南西の隣接地であるという。
古記録にとりあげられている。
◎摂陽群談 - 耳原村の西にあり、。天正年中明智日向守此の地を
穿ち糖秼等を埋めしめ軍用とするの古墳たり。是を以て時の人糖塚
というの所伝なり。
◎大阪府全志 - 天正1年(1573)8月28日和田伊賀守・茨木佐渡守等は
足利義昭の命を奉じて糖塚に陣し、郡山に陣せる信長の武将荒木信濃守村重
・池田筑後守輝政と白井川原で戦う。
さて、糖塚の由来とその利用について記しているが、年代に2~3年の
違いがみられる。この糖塚の地は、現在は平らにして畑になっている。
茨木市教育委員会発行 わがまち茨木より
登城日 平成十九年(2007)十二月十日
作成日 平成十九年(2007)十二月二十四日
白井河原の合戦
築城者・明智光秀
所在地・大阪府茨木市耳原二・三丁目附近
白川の合戦地で写真を撮っていると、墓地から帰ってきた方が話しかけてきました。
合戦に興味がありますか?なんて聞かれたら『はい』なんて答えていました。
この橋のたもとが合戦の地で、川は血で真っ赤になったそうだ。
この橋が出来るまでは、舟で渡しをしていたとも、おっしゃっていました。
この山は、本陣を置いた場所だから、登った方が良い、とも言っていましたので
公園の無料の駐車場に停め、全速力で駆け上がりました。
墓所の後の山に本陣が置かれた
山頂の本陣跡
西国街道から白川合戦の碑を写す
西国街道から法華寺を撮る
法華寺のまえの、西国街道の碑