三河の城巡り!

松平城

弘安年間(1277-88)、在原信盛が築城したが、 
在原太郎左衛門信重の時、関東から来た徳阿弥が
信重の娘婿となって家督を継ぎ、松平太郎左衛門親氏と称した。
二代目・泰親、三代・信光は岩津城の中根大膳を攻め滅ぼし、
岩津城へ本拠地を移した。その後、松平城は廃城となった。

大給城

松平親忠の二男源次郎乗元が初代城主といわれ  
地名から大給松平氏として続いた。
家康の関東移封について上野那波に一万石で 入った。
城は二百m余りの山城で、郭や二の曲輪・石塁の      
遺構がみられる。

愛知県豊田市松平町字三斗蒔

愛知県豊田市大内町字城下

岩津城

応永二十八年(1421)、松平信光は岩津にいた中根大膳父子を攻め滅ぼし、     
山上に岩津城を築いた。更に麓付近に7つの砦を築き、「岩津七城」と呼んで
一族を配して守りを固めた。文明初年(1470頃)、安城城を落として移り、        
岩津城には子・親長を置いた。  
             永正三年(1506)、今川勢を率いた伊勢新九郎が岩津城に攻め入り  
             松平一族はほとんどが討死し落城した。
             岩津城は要害の地であったため、敵方の拠点になるのを恐れ        
             家康人質時代に岡崎城代を務めた今川氏が廃城とした。

愛知県岡崎市岩津町字東山

山崎城は、天文十六年年に織田信秀が岡崎城への
備えの城として築城した。 信秀は、山崎城に岡崎の
松平広忠の叔父松平信孝を城主とした。
松平信孝は、初め三木城(岡崎市)を領し、松平広忠
の後見役を務めていたが、次第に専横になり、    
宗家から所領を没収され、その後織田信秀に仕えた。
天文十七年、松平信孝は単独で岡崎城を攻め敗死する
その後、天文十八年に今川・松平連合軍に攻められ

落城し山崎城は廃城となった。

山崎城

愛知県安城市山崎町城跡

安祥城

愛知県安城市安城町城堀

創築年代は不詳だが、志貴荘地頭で足利一族の和田遠江守親平が     
永享十二年(1440)に築城したとする説がある。しかし、安祥城について     
具体的な伝えが残るのは松平一族が入ってからである。
文明三年(1471)松平信光は策をもって安祥城を攻略、安祥松平氏の本拠とし
家督を子の親忠に譲った。親忠は五人の男子に、乗元の大給松平,親房の 
安祥松平,親光の西福釜松平,張忠の東条松平,乗清の滝脇松平に松平を
名乗らせ、明応五年(1496)長男・長親に家督を譲っている。その後、信忠・  
清康と続き、岡崎城を本拠とするまで松平家代々の居城となった。
永禄三年(1560)義元敗死、同5年織田信長と松平元康との間に攻守同盟が 
結ばれ、安祥城は廃城となった


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登城日 平成十七年三月二十四日
作成日 平成十七年三月二十五日
編集日 平成十七年三月三十一日

私見

三河の住人さんに、城では記念すべき一城目になる松平城に案内されました。
大手道は、整備が行き届いてるにもかかわらず、一連の松平遺跡では、       土曜日なのに人を一人も見ることなく終わりました。史跡というものが、        いかに 観光の武器にならないかを残念ながら、如実に示していますね。

登城口から尾根筋を西に向けて約二百m程進むと、大給城の堀切がある。
 大給城の縄張りは、大きく四つの曲輪群からなる。 最高所にある本丸、     本丸の東に位置する二の丸、本丸南下にある居館、そして二の丸北の        谷筋の水の手曲輪だ。
 大給城を訪れて、谷筋の水の手曲輪は感動ものだ。 現代風に云うならば     「砂防ダム」、もちろん規模の大小はあるが、石垣で築かれた堤防が         二段築かれ、谷筋の防御と水の確保のために築かれていている。

今回の城巡りは予備知識なしでの城巡りである。感動・驚きの連続だが
 残念ながら写真は、もう1つキレが無い!。

私見

本来は、岩津城のある城山と岩津天神とは地続きであったが、           現在ではその間を東名高速が通り、山の一部が切り崩されている。

 岩津城は、私有地ということもあり、全くの未整備で雑木と竹林に覆われて  いるが、雑木をかき分けて登ると、土塁・空堀の遺構を見ることが出来る。 
   ◎二人で行けば怖くない。と三河の住人さんが先頭をきる。

私見

私見


山崎町神明社一帯に築かれた戦国時代の典型的な     方形城館です。幅13m、深さ2mの堀が約50m残っていますがもとは、この堀に接して、幅15m、高さ3.5mの土塁がめぐらされていました。今の神明社本殿は土塁の上に築かれています。周囲を取り囲む土塁は東西100m、南北90m、◎その北東の約2.3m高くなった端に、隅櫓をおいていたと三河の住人さんから教わる。

奥殿陣屋

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徳川家康の祖四代松平親忠の次男乗元が大給城主となり          
大給松平を興した。 その五代目真乗の長男家乗は、            
岩村城
主となりその後西尾藩主として続く。                   
次男直次は、大阪の陣に戦功 をあげ奥殿藩の藩祖となった。        
奥殿藩は、三河に四千石のほか信州佐久に一万二千石を領していた。  
この陣屋は、宝永四年に四代乗真の時大給の地から当地に移された。  文化三年に十一代藩主松平乗謨が信濃国田野口(龍岡城)に       居城を移すまで七代百五十二年間陣屋が置かれた。
(現地案内板より)

愛知県岡崎市奥殿町雑谷下10

私見

昼前になり、ここで食事をすると三河の住人さんが言う。
三河の住人さんの、奥様の御すすめの奥殿陣屋で食事ができるらしい。
格式のある構えの山門をくぐり、正面玄関より入る。
奥殿陣屋書院内の金鳳亭で、きれいな庭を眺めての食事。
昼前という事で空いていたが、12時を過ぎると、満席になる.。
庭を眺めての食事をしていると、時間の過ぎるのも早い。
お腹もふくれて、次の目的地に向けて外に出ると、雨が降っていた。
でも、雨なんか、何とも思っていない。でも、雨具は私の車に置いてきた。

美味しかったです。ごちそうさまでした!。
   今思ったが、三河の住人さんはタバコを吸っていなかったなぁ〜?

安祥城は、現在は歴史博物館の隣りに安祥城址公園となっている。 安祥城は、本丸を中心に円心状に曲輪を配置した縄張りの城で、  本丸・二の丸が現在でもはっきりと判る。
本丸には大乗寺が建っていて、山門脇に石碑がある。

私見

西大平陣屋

《森城》

寛延元年(1748)江戸町奉行を十九年間務めた大岡忠相が、
加増により大名に列して西大平に陣屋を築く。
この地は、東海道岡崎宿と藤川宿との中間に位置する交通の要所であった。
大岡氏は参勤交代を行わない定府大名であったから、藩主が西大平に
居住していたわけではない。

私見

朝5時〜6時 最初は真っ暗!

朝の5時に着いたが、真っ暗闇で途方に暮れる。
車を降り、陣屋の門前に行きワンショット。写真を確認する。
案の定、真っ暗け。あとで修正する事を考えて撮りまくる。
抑えに、フイルムカメラで撮る。

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愛知県岡崎市大平町西上野95−2

定番の石垣の下方が広大な水の手曲輪だ!

堀に下りて撮影

土塁が雑木林になっていた

ごちそうになった陣屋内の金鳳亭

松平城の由来書

山門と城碑

私が傘を忘れ、傘をお借りしました。
三河の住人さんはこの姿で巡りました
申し訳なくうしろから記念に1枚

奥殿陣屋の庭園

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