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伊豫國・二人で城巡り

雲海展望台

慶長四百六十二年(2008)十月十三日
朝1時半出発〜夜11時12分着
最低気温11.7℃ 最高気温27.9℃
走行キロ数 974Km

夜7時過ぎの高松城

順次アップしていきます 〆(´・・_,`ゞ)

新谷藩陣屋内の鱗鳳閣

村上家旧邸宅

大洲城

松山城

湯築湯築城

今治城

  新谷藩陣屋  愛媛県大洲市新谷町
新谷藩(にいやはん)は大洲藩の支藩。藩庁として新谷(大洲市内)に
新谷陣屋が置かれた。
元和九年(1623年)大洲藩二代藩主・加藤泰興の弟・直泰は幕府より一万石分知の
内諾を得て新谷藩が成立した。内紛の後、寛永十六年(1639年)藩内分知ということで
決着し寛永十九年(1642年)新谷に陣屋が完成した。藩内分知は本来は陪臣の扱いであるが
当藩は幕府より大名と認められた全国唯一の例である。


新谷小学校の裏門から入り、校舎裏の駐車場奥に、藩政時代に
謁見所・評定所であった鱗鳳閣が、庭園遺構と共に残されている。

  村上家旧邸宅  愛媛県大洲市藤縄有ノ木
村上家は、大洲市郊外(南久米村札かけ)の鳥阪城主・村上吉継氏の一族で
元和年間(西暦1630頃)大洲藩の分駐により新谷藩主加藤直奉氏に従い
藤縄有ノ木に駐在した。
一族は鉄砲隊長などの身分で廃藩まで勤務した。明治維新後は藤縄士族会に属し、
農林業で地方の農産物輸出などの先駆者として異才の業績を残して居る。
                             現地説明板より

雲海展望台から帰る途中、道一面にイガグリが散乱していた。ブレーキを踏み
右手を見入ると、《村上家旧邸宅跡》の碑が見え、慌てて土手を駆け上がった。

  大洲城  愛媛県大洲市三ノ丸
天正十二年(1584)豊臣秀吉の四国征伐が始まる。秀吉の命を受けた小早川隆景の
軍勢三万余騎との攻防戦は一ヶ月に及び、肱川に取り囲まれた大洲城の堅固さを
世に知らしめた。しかし、秀吉の勢いには勝てずついに開城。
 その後、河野通直、次いで戸田勝隆が大洲城主になるが、文禄四年(1595)藤堂高虎が
宇和島城主になると、大洲城は宇和島城の支城として藤堂高虎の支配下に入った。
 慶長十四年(1609)淡路洲本から脇坂安治が五万三千石で大洲城主となると、四層四階の
層塔式天守を築くなど城の大修築を行った。

前回愛媛県の城巡りの時は、大洲城の天守は上がっていなかった。
今回は大洲城の天守を観たい一心で、《伊豫國・二人で城巡り》となった。
天守は木造建て建てるべき!。その中でも、地元の木材で建てた大洲城の天守は
感動の連続でした!。

  松山城  愛媛県松山市堀之内
松山城の創設者である加藤嘉明は、元徳川譜代の武士であった広明を父にもち
六歳の時父が美濃国で逝去後、やがて羽柴秀吉に見出されてその家臣となり
二十歳の時に賎ヶ岳の合戦において七本槍の一人として武勲をたてた。
その後従五位下左馬介に補せられ、伊予国正木(伊予郡松前町)六万石の
城主に任ぜられ、また文禄(1592)・慶長(1597)の役には九鬼・脇坂らの諸将とともに
水軍を率いて活躍し、その功によって十万石に加増される。

最終の現存天守はまた格別なもんだ!。城郭に入り、前回と何となく違うように思う?。
説明板を見ると、石垣が積み加えられていた!。登城道も変更されているようだ!。

  湯築城  愛媛県松山市道後湯之町
康永元(1342)年、南朝方の忽那氏・土居氏が湯築城攻めに加わっていた。
その後湯築城は、河野氏の軍事拠点として細川氏の伊予侵入に対して度々立ちはだかった。
貞治三(1364)年、湯築城は細川氏に落とされ、河野通尭は恵良城に退いた。
翌年、通尭は湯築城奪還を行ったが、細川頼之に敗れ九州に逃れた。
享禄年間(1528〜32)、河野通直は嫡子に恵まれなかったため、女婿の村上通康を
嗣子としようとしたが、重臣の反対によって実現できなかった。
このため、村上水軍が河野氏の下から離れてしまった。
豊臣秀吉の四国征伐では、小早川隆景が湯築城攻めの総大将となったが、その先陣を勤めたのは村上水軍であった。河野通直は、小早川軍に降伏し湯築城は隆景のものとなった。
小早川氏が筑前名島城に転封となると、代わって福島正則が入城したが、正則は本拠を府中城に移したため、湯築城は廃城となった。


松山城の隣の山が湯築城になっている。車で10分足らずで着き、専用駐車場に停める。
駐車場の横に大手門があり、土塁を過ぎて、右側に資料館がある。その内側に内堀がある。
昔は竹藪で、謎の多い城跡です。と資料館の方が説明されていました。

  今治城  愛媛県今治市通町
今治城は関ヶ原合戦の戦功によりの宇和島城・大洲城の城主から東伊予二十万国に
増封された藤堂高虎が、はじめ国分寺山城を居城としたが、山城のため、城下町の経営、
水軍の基地などに不便なために新しい居城を築こうと瀬戸内海海岸を選び慶長七年(1602)
より築城工事を始めたものである。

この城も前回の時とちがって石積みに変化が見える!。駐車場から天守が見えたが
今回は天守の上二層のみしか見えず、大手門より登城する。本丸に入るなり、
藤堂高虎像が迎えてくれる。その奥に五層六階の天守が見えた。

  讃岐 高松城  香川県高松市玉藻町
天正十五年(1587)に豊臣秀吉から讃岐一国十七万六千石を与えられ、国主として入府した
生駒千親正は、はじめ引田城に入ったが、領内の東に片寄りすぎ、城地も狭いため、
天正十六年から新しく香東郡野原庄(篦原)と呼ばれていた現在地に築城を着手した
平城(水城)です。
縄張り(設計)は、当時築城の権威であった中津城を築いた黒田孝高とも小倉城を築いた
細川忠興とも言われ、数年の歳月を費やして完成し、高松城と名づけました。

今日最後の城、高松城にやってきましたが、日も暮れ月見櫓の後方にお月様が……。
明るい間に着きたかったが、昼食に時間がかかり、予定通りには行きませんでした。
帰路の途中で、いつもの『ビンビ屋』で四国最後の食事を済ませ淡路経由で帰ってきました。

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