安濃津・城巡り 

宮山城

垂水城

渋見城

津城


安濃津城の築城はいつごろだろう。
伊勢地方を北から順次その支配に組み入れて、永禄12年(1569)には中勢に進入してきた。
当時の中勢の雄は長野氏で、その支配下にあった乙部兵庫頭藤政(ひょうごのかみふじまさ)の
渋見城を落とし、安濃城による細野壱岐守藤敦(いきのかみふじあつ)を攻めた。  
藤敦の勇戦で   信長は和議を結んだが、弟の信包(のぶかね)を長野家の養子とした。
こうして、信包を一時上野城(河芸郡)に入れて中勢を押さえ、同じく永禄12年、北畠具教(とものり)を
大河内城に攻めた。ところがこれも和議となって二男信雄を養子としたが、伊勢地方はほとんど
信長の手中となった。信包が津に移ることとなったのはその後で、築城の開始は
元亀(げんき)2年(1571)のころだったようである。築城にあたっての見立ては、
信長の武将滝川一益(かずます)で、津近辺の丘陵では要害に難があり、結局、当時川や沼沢の
入り組んだ安濃川のデルタだった現地を選んだ。低湿な地形を要害としたわけである。
城は天正8年(1580)にはほぼ完成し、五層の天守閣も築いた。そして、柳山付近にあった
津の町を城下に移した。津が城下町として発展するのはこれ以後のことである。

平成十九年(2007)四月八日

古くは安濃津と呼ばれ、港町として繁栄してきたと言われ、
今から400年ほど前の中国明代の歴史書には、
坊津(ぼうのつ)(鹿児島県)・花旭塔津(はかたつ)(福岡県)
とならんで『日本三津』のひとつであると紹介されています。
ここにみえる日本三津とは、中国から見た三つの重要な港を意味し、
中国との貿易港のひとっとして機能していたと考えられます。

日 本 の 三 津

久居城

久居藩の初代藩主・藤堂高通が、城づくりのために迎えたのが
植木升安(うえきしょうあん)(?〜1698)です。
升安は、兵学にも精通した都市計画の専門家でした、
寛文九(1669)年頃、升安が最初に設計した久居城だと考えられています。
城あるいは城下町づくりでもっとも大切なのは、敵の侵入に対する防衛機能。
土塁や塀をめぐらせた堅固な要塞となっています。
しかし、当時、築城には江戸幕府の許可が必要で、幕府は久居城の設計についても
城のまわりに塀をめぐらせてはならないことなどの命令を下しました。
そのため、升安は設計を変更したと考えられます。
武士の住む城内と町人の住む町家とが完全に分離した久居城は、当時、
もっとも進んだ考え方で、升安の優れた設計思想がうかがえます。

木造城

造家は伊勢北畠家の祖顕能の次男にあたる顕俊が興し、一志郡木造に居城を構えたことから
木造氏を称した。木造氏は、数ある北畠一門の中でも首座に位置する名家であり、歴代当主が
主家の北畠氏当主の官位を上回ることもあったほど。また度々足利体制に与し、
北畠氏を離反することがあるなど、北畠氏と木造氏の間には常にわだかまりが絶えなかったようだ。
この事は永禄十二(1569)年の信長南勢襲来時に決定的となる。
在の木造城址は7代俊茂が永享元(1528)年より三年をかけて築いた新城で、かつての城郭は
その南300mの地点にあったとされる。城は低湿地に囲まれた天然の要害で、堀を多重に
めぐらすなど難攻不落の堅城であったとされる。しかし八代具政が、天正十二(1584)年、
戸木城に移ったことにより廃城となった。

三重県津市丸の内

三重県久居市木造町字城

三重県津市西鷹跡町

      

 戦国の世に木造具政が敏太神社の裏山に築いた砦である。
木造具政が伊勢の国司八代北畠具教の弟で養子として小造家に入ったが
のち戸木に隠居をしたので戸木御所と呼ばれていた。
 天正12年(1584)織田上総介清生に郷敵にまわして戸木城で籠城するが
宮山城は戸木城の北を守る要害の位置にあり敵の動勢を見渡す上から必要な城であった。
木造方の柘植彦次郎田中道京海津河原太の諸氏はよく防ぎ戦い西の谷間は激戦となったという。
しかし、織田勢の家所帯刀に押され遂に同年5月小造方はこの城を捨てて戸木城に引き上げた。
その後この城は織田勢の本陣となり、同年秋停戦と共に廃止された。
現在、城址に稲荷神社が祀られているが、その周囲には土塁や空堀が残り、
当時の面影を今に伝えている。    久居市教育委員会  現地案内板より

久居市戸木町字敏太

津市大字垂水字井戸谷門田

三重県津市渋見町字城

この砦は、永禄年間(1558-70)乙部・中河原の城主乙部兵庫頭藤政が織田信長の
伊勢侵攻に備えて築城したものです。永禄十三年(1570)信長の弟信包に攻められ
城は落城、藤政は家所(美里村)に逃れそこで自殺したとも、一身田専修寺に入り
剃髪したとも言われますが、詳細は不明です。
城は、およそ5.5ヘクタールあり、主郭を中心にいくつかの郭から成っています。さらに、
これらの郭を二重の空掘りで取り囲むように計画されており未完成でありますが
近世の『回』字型の縄張りに近い型式をとっていました。    (現地案内板より)

  

本丸跡の公園

土 塁

空 堀  

土 塁

渋見城の城碑     

本丸跡

隅櫓と城碑

私見・登城日 平成十九年(2007)四月八日 作成日 平成十九年(2007)五月六日

 垂水城址は、近年の宅地造成・道路建設などによって消滅した部分が多く
 調査前には130m四方ほどの丘陵が小島状に残るのみであった。
 昭和27年・34年の空中写真や地形図などから、城跡附近は、標高45m前後の
 ビ−クとそこから四方に尾根が派生する地形であったことがわかる。
 調査前には、南と西側の尾根の一部が残っていて郭や土塁・堀切などの遺構が
 確認できた。

T郭
 T郭は丘陵頂部に築かれていて、空中写真では部分的に破壊されているものの
 4周を巡る土塁が確認でき、主郭と考えられる。写真から判読する限りでは、
 T郭は台形状を呈し郭内は東西30m前後・南北20m前後の規模と推定できる。
 調査前には、そのほとんどの部分が削平され消滅していたが、東および南土塁
 に虎口が残っていた。なお、東土塁下方の横堀は完全に埋没し、細長い平坦地
 となり林道として利用されていた。

U郭
 U郭は、空堀を挟んで、T郭の南に位置する郭である。
 東西27m、南北30mの逆台形状を呈し、縁辺部には、部分的に痕跡程度の
 土塁が残存していた。また、U郭の東側と南東側に腰郭があったが、いずれも
 事業者によって削平されてしまった。
 なお、東側に延びる尾根には、堀切などは認められない。 『資料提供・橋元皆人氏』
 

編集日 平成十九年(2007)六月十九日  垂水城

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