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大阪城・西

雑喉場魚市場は、江戸時代を通じ大坂市中の鮮魚の独占的な取引権を獲得し
大坂三大市場の一つとして繁栄を誇った。近海で取れた魚が毎朝荷揚げされ
勇ましいかけ声とともに行われる。取引は、商人の町大坂を象徴する風物だった。
明治以降も雑喉場は発展を続けたが、昭和六年大阪市中央卸売市場開設にともない消滅した。
かって荷揚げの便を支えた百間堀川も戦後の埋め立てによって姿を消し、現在記念碑が建てられている。

古来、野田、福島、佃は海に近く、淀川河口一帯でとれた魚は、石山本願寺と野田の砦付近にあつめられ、
生魚市場は大いに賑わっていたようである。 しかし、慶長十九年(1614年)と元和元年(1615年)の
大阪夏・冬の陣で豊臣家は滅び、この付近は焼け野原となった。 

松平忠明は元和四年(1618年)、生魚商人十七人に特許を与え、組合「十七軒会屋」をつくらせた。
これには野田屋与右衛門、福島屋孫兵衛、佃屋五郎兵衛など、この付近の出自のもののほか
天満、尼崎、今津、明石屋などが加わったという。 この生魚問屋が、雑魚場から雑喉場と呼ばれるようになった。
こうして淀川の川魚を中心とした商いから、広く近海の魚介を商う生魚市場へと整備されていった。

大阪府文化財センター江浦洋さんは大阪城大手門前の大阪府警本部ビルの建て替えに先立って
大坂城跡の発掘調査を1999年度と2003年度に担当されましたが、そのうち、2003年末の調査では
大坂城大手口の西側で巨大な堀を検出されました。大阪府警ビルの建設にあたるジョイントベンチャーの
主体・竹中工務店の協力を得て、発掘作業を進めておりましたが、その成果の一部はNHKTVで
「その時、歴史は動いた」で次の表題で紹介されておりますが、責任者・江浦さんも出演、説明に
あたっておられました。江浦さんはこの発掘現場から直ぐ近くの浪速宮跡の発掘にあたられた方でもあります。
江浦さんは「この堀は、埋め立てた土砂の堆積状況から一気に埋め戻されたものであることが明らかで
史上、このような豊臣大坂城の堀が一気に埋め戻される要因としては、大坂冬の陣後に行われた徳川方による
埋め戻しである可能性が高いものと考えられ、実際、堀から出土した祈祷札にも慶長十三年の年号もあり
出土した陶磁器の年代にも大きな矛盾がない」と言っておられます。

この堀発掘のとき出てきた木簡を洗い赤外写真を撮影した文化財センター・江浦さんは、大阪城博物館学芸員跡部さんら
二人に解読をお願いしたところ、跡部さんが驚きの声をあげ、これは「菅平右衛門様」と書いてあるといわれ、
私が跡部さんに差し上げてある「淡路・菅水軍の歴史」のプリントを江浦さんに示されたそうです。前記の跡部さんは、
私がHPの「淡路・菅水軍の歴史」を書くにあたって資料を頂いた方で、同文の初めで謝意を述べさせていただいております。
菅平右衛門達長は淡路の菅水軍の主将で私のご先祖でもあり、直系の子孫は鳥取池田藩に三千石で出仕した
菅平右衛門達長の子息の家系で、明治維新まで鳥取藩の要職にありました。

安治川から引き上げた大坂城の残念石

ざこば橋の記念碑と足元に由来書

雑喉場魚市場跡の石碑と由来書

大阪府警本部ビル建設地の障子堀跡

左が中之島、右が長堀川。中央に雑喉場市場
 雑喉場魚市場跡の由来書を撮る。

S … 真田氏            G … 管理人 (五郎)  

G … ご無沙汰しています 今日は歴史の事でお尋ねしますので宜しくお願い致します。
      5年前に大阪府警本部ビル建て替え用地に大坂城の障子跡が発見されました。

S … あの障子堀は衝撃をうけましたね。大坂城に障子堀があったと聞かされて驚愕しましたよ


G … 私もその話を聞き、早速 大阪歴史博物館の最上階から覗きました (^_^)v 。

S … 大阪歴史博物館から見る。なんて考えも付かなかったなぁ。

G … 数日してその話を聞きつけ、大坂城の渡部館長さんが案内してくれました。写真はその時撮ったものですよ!。
     歴史的にも貴重な遺構が沢山出てきたようですよ!。フイルムを4本持って行きましたが、足りませんでしたね

     今はデジカメを使っていますので、何百枚でも撮れますがね
(^_-)-☆。

S … 私は仕事の関係で行けませんでしたが、その話を聞きうらやましく思っていましたよ!。

G … 堀の中から、淡路の菅水軍の遺構が沢山出てきたようですね!

S … 「菅平右衛門」は元来、豊臣水軍として活躍した武将でしたが、関ヶ原の戦(1600)で西軍敗北以降、
    藤堂高虎に仕えます。慶長十九年(1614)十一月に始まった大坂冬の陣では徳川方の藤堂高虎軍の
    一員として参陣し、同年十二月二十六日に、主君藤堂高虎と口論し、切腹を命じられています。


G … 今回出土した木簡に「菅平右衛門」宛てが書かれていたとか?。

S … 木簡には宛先として「菅平右衛門様」と記されており、調査で検出した堀の埋め戻しに菅平右衛門を
     はじめとする藤堂高虎軍が関わっていたことが類推できます。

     
武将の名前が書かれた木簡が見つかること自体貴重で、歴史的事実を補強する発見だと思いますよ!。

G … ざこば市場の事でお聞きしますが、うつぼ公園から江之子島辺りまで広範囲に市場があったようですが?。

S … ざこば市場は、元々は雑魚場市場と言っていましたが、江戸時代に雑喉場と名前が変わったようですね。
      江之子島の方は、新鮮な魚。うつぼ公園の方は乾物の品を売っていたと聞いています。
 

G … 江之子島の公園に雑喉場市場跡の石碑がありましたが?。

S … 大正十二年(1923)中央卸売市場法が制定され、全国の魚市場が次々に中央卸売市場に変わっていった。
     これに伴い、それ以前は大阪市西区の江之子島付近にあった魚問屋の会所、「雑喉場」は
     旧住友伸銅所と下福島小学校跡の、現在の野田1丁目にある大阪市中央卸売り市場に統合され
     近代的な卸売市場にかわっていったようですね。

G … 話は違うと思いますが、落語家のざこばさんとのかかわりは?。

S … その話は、あまりわからないですが、初代のざこばさんは広島県出身です。副業として市場で働いていた。
     とか聞いた事がありますが、真相はわからないですね?。
     二代目のざこばさんは、今も中央市場に挨拶に行っていると聞いていますよ!。

G … 一つ面白い話を聞きましたが、うつぼ「」公園のは魚の名前ではなく、矢を入れる「靱」だそうです。
     秀吉が、釣った魚を入れておく「びく」を矢を入れる「靱」と見間違えた。ちょっとわかりにくい故事が由来のようです。

S … う〜〜?。 靱は確かに矢を入れる「靱」だが、秀吉が間違って魚を矢を入れる「靱」に入れたという話は
     話題性はありますが、私はお答えできませんね
゚・(。>д<。)・゚

G … 今日は、お忙しい最中 アポ無しのぶっつけ本番での対談にお付き合い下さいましてありがとうございました。
     次回は連絡を取らして頂きますので宜しくお願い致します
m(_ _ )m。

S … えっ! またこんな対談を計画しているの??

G … しばらく続きますので、宜しく!(^_-)-☆。

S … 仕事より疲れるわ。゚(ノД`゚)゚。       

手前古川と大佛島、安治川向こうに中央市場

大阪歴史博物館最上階から写す

 作成日
平成二十年
 (2008)
八月十五日

          写真
上から、西区九条の古川跡に石碑として建っています。

二枚目、川口一丁目の西マツダさんの前に建っています。

三枚目、大阪歴史博物館から撮影しました。

四枚目、当時(2003年)の大坂城の渡部館長の案内で撮影できました。

五枚目、江之子島一丁目の公園隅に石碑と案内版があります。

六枚目、西警察の裏の日通の裏になります。対岸に中央市場が見えます。

七枚目、雑喉場魚市場跡の案内版を写しました。黒い影は、私(管理人)です。

 編集日
平成二十年
 (2008)
八月十六日

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