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大阪城・南

               三光神社

三光神社は宰相山町の姫山にあり、姫山は一に嬪山とも作る、祭神は仁徳天皇なり。
もと日月山神社と號せしを、中頃姫山神社と改め、明治維新後一時宰相山神社と稱せしが
後また姫山神社に復し、明治五年村社に列し、同四十一年四月境内にありし三光神社を
合祀して今の社名に改め、同四十二年六月神饌幣畠料供進社に指定せらる。

社は反正天皇の御宇に創建せられ、寛文元年現今の御旅所々在地に移りしが、
寛永三年奮地即ち現在社地に複座せり。創建以来神職として奉仕せるは武内宿禰の裔たる武川氏にして
連綿今日に及び、當主は其の八十六代なりといふ、而して合祀せられたる奮三光神社は
今を去る七代前の宮司武川伊賀守の、陸奥國青麻三光宮の分霊を勧請して、三光宮と稱せしより
信徒諸國に増加し、燈籠・鳥居・手水鉢其の他の寄附多く、賽者群集しければ、
世人は三光宮のあるを知りて姫山神社のあるを知るもの少かりしが、此に至りて合祀せらる。

境内は七百貳拾坪を有し、本殿・幣殿・拝殿・神饌所・社務所等相駢び、稲荷神社・皇大神社・
大國主神社・宿禰神社・菟道神社・貴船神社・六柱相殿神社・及び野見宿禰神社等の末社散點せり。
野見宿禰神社は安政六年七月天満砂原屋敷の相撲場に勧請し、其の後同相撲場の難波新地六番町に
移ると共に移されて同町にありしを、明治十九年三月二日當社境内に移轉せられたるなり。
                                          
                                      (大阪府全志より)

石段を上がると本殿がある

昭和20年6月の戦災で焼け落ちた本殿の瓦

八十六代目の武川宮司氏

真田石の上に建つ真田幸村公の胴像

抜穴の中の石積みは布積でした

宮司氏が気にされている灯篭の『ざこば』文字

戦後崩れてきたので石垣にしたそうです

所在地・大阪市天王寺区玉造本町14番90号

   T … 武川宮司氏    G … 管理人(五郎)     

G … ごぶさたしています。今回、大阪城の南としてお聞きしますので宜しくお願い致します。
     三光神社の南西に宰相山公園が隣接していますが?。


T … 戦前は津藩第十一代の藩主、藤堂高猷(とうどう たかゆき1813−1895年)
    が1859年につくった
氏の別荘でしたが、戦後大阪市の公園となりました。


     宰相山公園の名前の出所は、前田宰相利常が陣をしたのでこの名がついた。
     と言う説が有力だが、前田隊はもっと鶴橋駅よりに陣を構えていた。
     むしろ真田丸で共に戦った京極宰相備前からとったのではないのか?。

G … 空襲でかなりのダメージを受けたようですが?。

T … 昭和二十年(1945)六月の空襲で社殿を始め建物一切が焼失したが、戦後5期にわたる
    再建工事が行われ、現在の形に復興している。
    また、境内は桜の名所として知られているが、江戸時代も当社一帯は風光明媚な景勝地で
    「摂津名所図会」には「この地よりは比叡山をはじめとし生駒、信貴、二上、金剛山まで
    一眼の中に見渡せた」と記載されている。

G … 真田の抜穴の事でお聞きしますが、本当に大阪城迄通じていますか?(・_・;?)。

T … 当時は通じていた!。しかし、土地開発で地下鉄・高いビルが建ち暗道は寸断され
    今は崩れて途中までしか行けないが、倒壊の恐れがあるので抜穴の中には入れない。

G … 残念ですねぇ!今日は三光神社さんから暗道を通って大阪城迄行こうと思っていました(((。・д・。)))

T … 私も抜穴を通って大阪城迄は行った事は無いですが、中腰で歩くのは身体がもたないですね(笑い)
     大坂城の出城のあった処で慶長・元和の大阪合戦の頃、真田幸村が此の地に
     偃月城(えんげつじょう)と名付ける塁を定め本城よりここに至るまで地下に暗道を設けた
     と言い伝えられていますが、今となってはロマンですねぇ。

G … 真田石の事でお聞きします?。

T … 真田の抜け穴脇に真田幸村公の陣中指揮姿の銅像(イラストレータ成瀬浩一デザイン)を建立
    昭和六十二年(1987)五月五日、その台座に信州上田の真田家の菩提寺である長谷寺より
    取り出した石(名付けて真田石)が置かれている。

G … 上田城で真田幸村公像のミニチァをみました!。

T … あれは真田幸村公胴象をつくるときに寄附をしてくださった方に、御礼を込めてお渡ししました。

G … 私は5年ほど前に真田家の墓所に参りましたが、代々のお墓が並んでいました
が、
     幸村公は顕彰碑でしたね。それもかなり後に建てられたと住職さんに聞いています。


T … 幸村は戦死していない!。 播州方面に逃げ、後九度山で時期を待ち、信州に逃げ帰った!。

G … 5年前にお聞きしましたが、今回そのお話の確認をしたいと思っていました。

T … 話は変わりますが、境内に沢山の灯篭が有りますが、一つわからない灯篭があります。
    寛政十年と刻まれていますが、明治三十五年にこの三光神社に運ばれています。
    その灯篭に(
ざこば)の文字があるのがわからないですねぇ?

G … 私の知っている(ざこば)でしたら、落語家のざこばさんですかね?
     でも、明治三十五年と言う事は初代のざこばさんですかね?。では調べて報告させてもらいます。
     本日はお忙しい最中、沢山の解答を頂きありがとうございました。


 

                                 
 報 告

 江戸時代後期に、現在のうつぼ公園附近で雑魚場市場が栄えていた。昭和の前期に、現在地の中央市場に移転。
 雑魚場市場の跡地を、公園とした。このうつぼ(靱)公園の(靱)の意味は弓矢の矢を収める入れ物をさす。
 「」は魚の名前ではなく、矢を入れる「靱」だそうです。秀吉が、釣った魚を入れておく「びく」を矢を入れる
 「靱」と見間違えたという、ちょっとわかりにくい故事が由来のようです。

                         江戸時代から昭和六年に中央卸売市場が出来るまでの三百十年間、
                         この地には塩干魚・鰹節・昆布・ほしかの問屋が何百軒も軒をつらねていた。
                         雑魚場市場近くに、当時海部堀川があり、船で商品を運んでいました。
                         雑喉場が生の魚の市場で、うつぼは干し魚の取引の場だったのです。
                            
                         浪速筋をはさんで細長いこの公園は、昭和二十七年まで「靱飛行場」だったそうです。
                         こんな街中に滑走路とは信じられない感じですが、北側の京町堀通りは
                         アメリカの軍人さんが遊ぶハイカラな街だったそうです
                         雑魚場の石碑は、うつぼ公園内と江之子島一丁目にあります。
                         また、近くには(ざこばはし)の石碑も残っていました。
                         
                         三光神社境内にある灯篭は、雑魚場市場のみなさんが関東から三光神社に
                         運ばれる費用をだし合ったしるしに、灯篭に(ざこば)を刻んだとされる。
                         つくられたのは、寛政十年で、運ばれたのが明治三十五年。

真田の抜穴跡

ざこばはしの石碑

 作成日
平成二十年
(2008)
八月二日

《偃月城》

≪真田丸出城≫

 編集日
平成二十年
(2008)
八月三日

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