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《作者》

  小原六六庵(1901~1975)昭和の書道家・漢詩家・。名は清次郎。六六庵はその号。
   別に方外、六六葊と号した。伊予、松山の人。


書道は大正三年、中村翠涛の門に入って勉強し、昭和十三年、書道教授となり六六庵を創立し独特の書芸を発表してきた。
吟詠は戦後いち早く同二十一年に愛国運動を捉唱し、吟詠芸術論を展開して、六六庵吟詠会を創立、総宰となって指導育成に専念した。
さらに全県下を行脚し、あるいは檄を飛ばして、同二十五年、愛媛県吟詠連盟を組織し、その初代会長となり、同三十三年以降は
名誉会長として貢献した。漢詩家としては六六庵吟社を主宰するほか、癸丑吟社、黒潮吟社、山陽吟社などの同人として活躍
六十年の作詩暦の中で、作詩の数は無慮数万首に至る。また、歌人としても、三十余年の歌暦を有し『にぎたつ歌誌』の同人として
独自の歌風を発表してきたが、憂国慷慨の歌が多かった。昭和五十年十月十五日、享年七十五歳で病没した。






《語釈》

松山城は加藤左馬之助嘉明によって、慶長七年(1602)から寛永四年(1627)の間、二十六年にわたって継続築城されたものである。
寛永四年、加藤嘉明、会津四十万石に転封の後、蒲生忠知がこれを受け、同十二年(1635)松平(本名久松)定行が後を継ぐ。
以後松平(久松)家は十数代相つき、二百数十年にわたって松山城主となった。前愛媛県知事、久松定武氏先考定謨伯は
大正十二年本城地を松山市に寄贈して、いまは観光・文化の中心となっている。海抜132mの勝山の頂上に巌然と聳える
松山城は、重要文化財に指定されている。

海南 … 昔の四国の地名を南海道という。九州が西海道、中国が山陽道、山陰道ほか、畿内東海道、東山道、北陸道
      北海道と称せられていた。ここでは、これを受け、広く海南と称したもの。

割據 … 一方面の土地を勝ち取って、それに據ること。

七雄 … 羽柴秀吉と柴田勝家が滋賀県北部の賤ヶ岳を中心に織田信長亡き後、決戦を行なったが、秀吉陣にあって槍をもって
       活躍した七人の雄将、福島正則・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟谷武則・片桐旦元をさすが
       そのなかの一人加藤左馬之助嘉明が、その後の勲功もあって、伊予松前城六万石から二十万石の大名に
       泰ぜられに及んで勝山に松山城を築城した。

三層 … 三層の天守閣。当初は五層であたが、久松定行の時代に三層に改めた。

作成日 平成二十年(2008)一月四日
















 






















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