蘇岳を東に望み西は火の海 蘇獄東望西火海
白川南に下って水潺湲 白川南下水潺湲
藤公の偉業城と偕に熾んに 藤公偉業城偕熾
秋雨春風勇魂を弔う 秋雨春風弔勇魂
(上平声十三元韻)
(作者)
原 雨城(1884〜1971) 大正、昭和の漢詩人、画家、書家。 字は篤。 雨城は号。ほかに以居主人とも号した。
肥後(熊本県)鹿本郡八幡村杉(現山鹿市)の人。祖父は肥後藩士原彦次郎元重。元重は歌人で白露仙桂舟と号した。
父敬五郎は春渚と号し多能村直人に南画を学ぶ。雨城はその一子。明治十七年(1884)六月六日、古弾刹医福山日輪寺の
かたわらに生まれた。いまも原屋敷と呼ぶ。山鹿尋常高等小学校、尋常中学済々黌山鹿分黌、熊本師範学校を卒えて菊池郡陣内、
砦各小学校訓導、大正二年(1913)釜山尋常高等小学校長となる。済々黌生徒のとき、渡部太道弾師に漢学、京都にて詩人・
書家福田静処、また大阪の春名栗城に詩書を学んだ父春渚から、その師多能村直人への入門をすすめられ、
同六年釜山小学校校長を辞し父子ともに京都の神堂画塾に入門した。ときに年三十四歳。一年にして直人死亡、父また他界にため、
南画の泰斗姫島竹外の門に入る。その後、南画の絵心に疑心を懐きときに南米ブラジル日本人中学校リンス学園校長の職あり。
渡伯、滞在七年。米国・ヨーロッパ・東南アジア等一周して自然の大観に接し、詩書画一体の境地に達し、
『南宗以文派』を創始する。やがて京阪美術界に認められ、同十四年、大東洋絵画展に第一等を受賞する。
昭和十八年秋、第二次世界大戦の戦禍をさけ、山鹿市大宮神社隣接の地に住居を定め、『以文山荘』と称し
画筆を揮い、詩書を繙き、詩画一体の絵を書き続け、同四十六年十一月二十五日没した。年八十九歳
その著に、『以文抄前篇』(南宗以文派の画論)、『以文抄前篇』(詩集)がある。
《解説》
京都から山鹿に帰って偶したが、昭和三十五年、新居に移り、最後の阿蘇登山をして、九月
わが家の庭から阿蘇五岳の雄大な眺めに接し、往時を思い起こして詠んだもの。
≪読み方≫
起旬『火海』は「ひのうみ」と読む。承句『潺湲』は「せんかん」「せんえん」の二通りの読みがある。
元韻のときは「せんえん」と読むのが正しいが、ここでは慣用に従う。
転句『藤公の偉業城と偕に熾んに』の「熾」は連用形止め。
《語釈》
蘇岳… 阿蘇山、熊本県と大分県にまたがる二重式活火山。カルデラ内に高岳、中岳、根子岳鳥帽子岳、杵島岳の五岳がある。
火海… 不知火の海。景行天皇ご西巡の際、海上に点滅する火をご覧になり、供の者に聞かれたが、誰もその火を解明することが
できなかったことからこの名がある。不知火は旧暦八月一日(八朔)の未明午前一時ごろから出現し、二〜三時間海上に
点滅する。この夜は、高島公園は数千人の見物人で賑わう。
白川… 源を阿蘇に発し、熊本平野を貫流して有明海にそそぐ。
潺湲… 水のさらさらと流れるさま。
藤公… 加藤清正、幼名虎之助、尾張国愛知郡中村の生まれ。母の縁籍で秀吉に育てられ、天正十三年(1585)七月
秀吉は島津義久を降し、清正に宇土城を守らせた。肥後城主・佐々成政の尼崎城で切腹するにおよんで
清正熊本城主となる。知仁勇を兼備し、仏教の信仰厚く、常に漢籍を座右におく。
頼山陽が『其の猛夜又の若く、其の慈菩薩の若し』といったように、十歳の幼少のとき、鬼面を被って盗人をおどしたり
賎ヶ嶽の七本槍蔚山の籠城など抜群の闘将であり、また、菊池川、白川、縁川、球磨川流域の堰堤治水工事
海岸の堤防等、その数三十有余り、あるいは林木を植え、また、民産を輿し、肥後五十四万石の実収七十五万石と
いわれるほどに富ませた。日本三名城の一つといわれる熊本城を慶長八年(1603)、徳川家康が征夷大将軍になった年から起工し
四年の月日をかけて難工不落の堅城を築いた。明治十年、西郷隆盛も、ついにこれを屠ることはできなかった。
城偕熾… 熊本城が永久にすばらしい姿を示すように、清正の赫々たる武勲、偉大な治水工事、本妙寺、
豊国大明神宮の如き厚い信仰心その偉業はまことにすばらしいものがある。
勇魂… たけだけしいつわものの魂
《通訳》
雄大な阿蘇の五岳を東の空に望み、西は洋々として不知火の海が広がる。白川の水は悠然と熊本平野を南にさらさらと音を残して流れる。
熊本城(銀杏城)が巌としてその威容を長久に示すように、加藤清正の赫々たる武勲、偉大な治水工事による安民救済の功績は
後世に祭として輝くことである。そして、菩提寺本妙寺の苔深い石磴に降る蕭々たる秋の雨や、春の楠の若葉に嫋々と吹き来る東風も
清正のたけき魂をなぐさめることである。
《鑑賞》
この詩は雨城七十七歳の九月の作。済々黌山鹿分黌の生徒時代から阿蘇山を愛して幾回となく登り、生地山鹿に京都から帰っても
その登山は続いたが、すでに白髪の身となって、この年の登山は感懐深いものがあった。新居の庭から眺める五岳の四季のたたずまいは
すべて一服の南画であった。かつて富士山を描いた筆は多くの阿蘇山に変わった。
以文山荘で日暮画筆を採り、また筆硯に親しんで吟思に耽ったが、吟詠家の来訪も多く、吟詠詩を多く詩作して『日本人の詩』として
吟詠の普及にも努めた。この詩もそれで、阿蘇山二題中の一つ。雨城の心象に映ずる詩魂は多く絵画的で自ら読者の心を清めるものが多い。
《備考》
同年九月作、熊本城の一首を掲げる。
征旅 … 軍隊
封政 … 肥後の守に任せられて政治をとる。
法華真諦… 『ナムアミ〜』の真理を。
用兵情 … 軍隊を率いて戦争するときの心とした。
なお、前者の詩に『八道の鶏の林の勲しは史のほこりと語り伝えん』の歌があり、後者の詩に
「智と仁と勇をそなへし武士は肥の国の国人の守りなるらん』の歌がある。
八道… 朝鮮八道
鶏の林…朝鮮の異名
史 … 歴史
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築城年・天正十六年(1588)
築城者・加藤清正
所在地・熊本県熊本市