山口城

築城者:毛利敬親
築城年:元治元年(1864)

慶長以来、山陰の一画萩を本拠として防長二州を統治して来た毛利氏は
幕末の変革期を迎えて藩内結束と強力な政策推進のため、二州の位置的
中心に藩庁を移すことが必要となり、藩主毛利敬親は文久三年(1863)
政庁の山口移鎮を実行する。

藩創設の最、幕府が山口築城を許可しなかったいきさつを思えば
この移鎮は、幕府の意向を無視した反幕の遷都ともいうべきものであった。
翌元治元年(1864)十月、高(鴻)峰の麓に堀をめぐらし、いちおう城の
刑態を整えた藩庁・山口屋形、いわゆる山口城が完成した。

しかし、この年の禁門の変に端を発した第一次長州征伐において、
幕府が征長を容赦する条件として真っ先にあげたのが、山口城の破却であった。
だが征長総督が山口へ派遣した巡検使一行は湯田温泉に案内され、酒や女の
ご馳走攻めに気をよくしたのか、屋根の瓦数枚を剥ぎ取るだけの形式的な
破却で許されている。

その後、高杉晋作の拳兵によって藩論が討幕へと統一されるや、山口城は
まさにその拠点となる。そして今一度、歴史の大きな波を受けるのは
脱隊兵事件の時である。

表門前で

表門

表門

城内からの表門

水堀

登城日:慶長四百十三年十一月三日  作成日:平成二十一年十一月七日

3日の午前1時に自宅を出発。茨木ICより名神自動車道へ。
山陽道で順調に進み、目的の城、岩国城を通り越し、山口城に変更。
山口城に着いたのが、6時半頃で表門の前に1台の車が停まっていました。
そのうしろに車を停め、城内に向かう。堂々とした表門に圧倒されるが
堀を渡り門をくぐる時、あぁ高杉晋作もこの門をくぐったのだ、と胸の
高鳴りをおさえながら城内に入る。

城内の散策を終え、城内からの表門に釘付け

しばらく見惚れていましたが、門をくぐると駐車場が混雑しはじめていました。
早々に次の目的城の岩国城に向かいますが、東に三つ目の交差点に
大内氏館の案内板があり、急きょ大内氏館に寄り道をしました。

後日、熊本県の孝太郎さんから掲示板に書き込みあり

よく似ているがなぁ? でも山口には来ていないだろうと声をかけなかったとか。
3台後に停まっていたとメールがありました。まさか
まさか!!でした。

《山口屋形》

所在地:山口県山口市滝町

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