田辺城

築城者:浅野知近 慶長十一年(1606)
所在地:和歌山県田辺市上屋敷一丁目

№437

《錦水城》

《湊村城》

《湊城》

田辺城の水門と石垣

関ヶ原の合戦後、浅野左衛門氏定が会津川西岸の上野山城(市内元町)から
海辺に近い洲崎の平地に城を築いた。しかし、翌年の暴風雨で流失した(『万代記』)。

その後洲崎城再建は無く、会津川東岸の湊に新たな築城工事を起こした。田辺城の前身『湊城』である。
元和五年(1619)浅野氏の三原への移封により、和歌山藩城代家老安藤直次が三万八千石で入城した。

直次は湊城を母体に城郭を拡大したが、それは新たな築城に匹敵する工事であったらしく直次が
田辺に入った時、田辺に城がなかったので城ができるまで旧家に宿をとったともある。『田辺大帳』

赴任後すぐ築城工事は始められたと思われるが、その年月はよくわかっていない。いちおう完成した
であろう田辺城は、その後も改修工事が進められ、城壁が紫垣や竹垣から白壁の狭間塀に替えられ
たのが天保二年(1831)で(田辺沿革小史記事本来)、堀普請は寛文十二年(1672)から嘉永元年
(1848)まで実に三十六回の多くが記録されている。

その記録には、田辺城の白壁が海面に反射してまぶしくて魚がとれないので、白壁に色を塗ってほしい
旨を城方に申し入れたことも書かれている。会津川の清流に映える田辺城は、当時際立って美しかった
ことの証で、錦水城の別名もここから称したものか。
                               日本の名城・古城事典より

田辺城の案内板

錦水神社

錦水公園の一角にある錦水神社

田辺城の縄張図

水門に掛かる橋

錦水神社のお堂

会津川の水門入口付近に散乱した石

水門の中の石段を上がれば城内へ

水門の左側の石段

橋の上から左側の石段を観る

水門の中の石段

登城日 平成二十三年(2011)二月十九日 作成日 平成二十三年(2011)二月二十日

田辺城の水門は二つの公園の間にあり海岸側の錦水公園の一角に錦水神社がありました。
水門の石垣は当時の面影を良く残っていました。会津川の水門入口付近に散乱している石垣を
回収して保存してほしいですね。

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