高岡城

慶長十四年(1609)三月十八日に、富山城が炎上した。城主は前田家の二代目の領主利長。
魚津城へ避難し、射水郡関野で築城することを決意し、幕府に許可を求めた。縄張は
高山右近と伝えられる。造営工事をするため、小矢部川畔に物資陸揚げ基地として木町がつこられた。

城の位置は、加賀、能登、越中の要であり、三国支配の地理的事情は、西に偏する金沢より重要。
また、周辺の諸城と有機的な防御態勢に入ることができるし、庄川、小矢部川の両河川を利用して
舟便が開けており、射水、砺波の殻倉地帯を控えているなど、いくつもの利点がある。

城の総面積二三万五五七四・六㎡。このうち水堀面積が七万四〇五〇㎡。約三割強。
『故墟考』によると、城跡は「東南二百一間。南西二百一間。西北二百五十四間。北東は、東の方
七十八間。北の方八十二間。本城については百十三間に百二間。後郭は五十間に七十三間。
本城右の脇郭は八十八間に三十八間。正面内は三十八間に四十三間。本丸の前郭は三十九間に九十六間。

利長は逝去するまでの足かけ六年、養老領の隠居城とした。十六年には瘍を病み、歩行困難となったが
大坂方からも助力を請う声があり、関東方との板挟みとなった。慶長十七年(1612)、利長は養老領
の内から十万石を金沢へ返し、従臣三十九人を減じ、自領を六万石に縮小した。以後病状は悪化の一途を
たどり、生死の境をさ迷う。同十九年三月には、高山右近の放逐事件があり、五月になって利長容体は
にわかに改まった。すでに湯薬を断ち、三代利常が駆けつけてきたとき、従容として息をひきとった。

築城者:前田利長 慶長十四年(1609)
所在地:富山県高岡市古城
 

№450

濠の周りに300本の桜

南外濠 に掛かる朝陽橋

本丸への石段

本丸

高岡城の見取り図

高山右近像

相撲像

高岡古城公園の石碑

二の丸と本丸との間の西内濠

三の丸跡に残る井戸

城内の射水神社

二の丸への石段

正面は本丸と二の丸を結ぶ土橋

登城日 平成二十三年(2011)五月二日 作成日 平成二十三年五月二十八日

無料駐車場に停め、案内板で確認! 約1時間と予定して散策開始。三の丸から二の丸に入り本丸を目指す。
ここで40分ほどかかり、城郭の広さを痛感!。本丸から大手道方面に歩いていくと、濠の周辺に桜の花が!!
富山県で桜を観られたことに感激しました。大手道沿いに高山右近の銅像を観て、駐車場に戻り
前田利長像を観るのを忘れた。と、気がついた時は宿の駐車場でサイドブレーキを引いた瞬間でした 
(/ω\*)

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