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田中城

所在地 静岡県藤枝市田中3丁目14

築城年 戦国時代末期
築城者 長谷川氏

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田中城の下屋敷の全景
 2007年10月07日

旧本丸御亭から冠木門を観る
   2007年10月07日

田中城の土塁の一部
 2007年10月07日

冠木門まえから旧本丸御亭を観る
   2008年5月11日登城

旧本丸御亭の中の階段の踊場に畳が!
     2008年5月11日登城

田中城は、方形の本丸を中心に四重の堀を同心円状に巡らせた、円郭式縄張の
典型として知られている。
また、武田氏の城に代表される丸馬出(三日月堀)を、虎口の外に六ヶ所も
もうけていたことも大きな特色といえる。

戦国期に築かれたにしては珍しい平城だが、これは周囲を湿地帯に囲まれた
微高地を活かしたものだった。近世の田中城は三の丸までがこの微高地上にあり
これを円形に取り巻く外曲輪は水田を埋め立てたものであった。

中央に位置した方形の本丸の面積は、わずか四六mx五六m程度といった極めて
小規模なもので、戦国期の名残というよりも、中世土豪の居館を連想させる。
基本的には戦国時代の城を取り込んで近世城郭としたため、近世を通じて天守を持たず
城門のある枡形以外は石垣を築かず、土塁を巡らした地味な城であった。

その一方で、兵法が盛んに講じられた近世では、諸大名の間で(信玄公が築いた甲州流の城)
として独特の縄張が注目され、絵図が盛んに模写された。

しかし、実際には武田信玄が田中城を改修したという確証はなく、むしろ今川氏の時代から
すでに三の曲輪まで有する同心円状であった可能性が高い。
これに丸馬出を設けるなどの改修を行なったのは、武田氏が駿河の防備態勢に入った段階
すなわち武田勝頼の時と思われる。




   家康の命取りとなった鯛のテンプラ

慶長十二年(1607)に家康が駿府に隠居すると、まもなく駿河・遠江は家康の十男徳川頼宣領となり
田中城は、家康や将軍のための『田中御殿』として整備された。
また半島口から東海道に至るまでの道は、『御成道』と称するようになった。
駿府隠居後の家康は、田中での鷹狩を頻繁に行なうようになるが、元和二年(1616)正月に
田中で腹痛を起こして床につき、四月に駿府城で七五歳の生涯を終えた。

腹痛の原因は、京都の御用商人茶屋四郎次郎から聞いて作らせた鯛のテンプラを食べ過ぎた
ことによるという。

その後駿府蕃領や幕領となるが、寛永十年(1633)に松平忠重が二万五000石で入城すると
以後、五万石までの譜代大名が九氏十二代が次々と入れ代わり、享保十五年(1730)の
本多正矩の入城以後は、本多氏七代四万石の城として続き、明治維新を迎えた。

私見

登城日 平成十九年(2007)十月七日  作成日 平成二十年(2008)五月十八日
登城日 平成二十年(2008)五月十一日 作成日 平成二十年(2008)五月十八日

平成十九年十月七日の登城は、三河の住人さんとご一緒でした。
城郭周辺の遺構を求めて約1時間余りの楽しい散策でした。

平成二十年五月十一日の登城は、ヨシ坊さんと、お連れの方と私の息子の四人での登城でした。
30分程のお話をさせて頂き、次は茨木市の城巡り(6月22日)での再会を誓ってお別れしました。
のち、息子と三日月堀と土塁の一部と奉行屋敷跡を確認して、気になっていた久能山城に向かう。
                今回の走行キロは 938kmでした。

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