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沼津城

所在地 静岡県沼津市大手町

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沼津城本丸址

本丸(中央公園)を急いで帰る女高生集団

沼津城の見取り図

天承元年(1573)武田信玄が没すると、子勝頼は同五年、武田水軍の本拠としてこの城を築いた。
さらに同十三年三月、伊豆興国寺城が徳川家康に攻略されると、武田方はこの城を捨てて甲斐に退いた。
この年、武田氏が滅びると、この城は家康の手に落ち、のち関ヶ原の合戦後、大久保忠佐が入城
忠佐の死とともに廃城となった。
                                    
日本の名城・古城事典より



この中央公園は、三枚橋城と沼津城の本丸跡に位置しています。
三枚橋城は、天正七年(1579)、武田信玄の子勝頼が後北条氏の戸倉城に対抗して築城したものといい
関ヶ原合戦後の慶長六年(1601)には大久保治右衛門忠佐が城主になりました。

しかし、同十八年(1613)の忠佐の死後世継ぎがなかったため大久保家は断絶となり
翌十九年、三枚橋城は廃城となりました。

以後160年余年の間当地に城はありませんでしたが、安永六年(1777)後に、老中となる水野忠友が
沼津に城地を与えられ沼津城を築城しました。
この沼津城は三枚橋城の北半分を利用して造られましたが、規模は三枚橋城と比べ小さいものでした。

慶応四年(1868)水野氏の菊間(現 千葉県市原市)転封の後、城の建物は沼津兵学校の施設として
使われましたが、明治四年(1871)の兵学校廃止後払い下げられ、姿を消しました。

この石碑の周囲の石は、昭和四十八年に上土町の静岡相互銀行(現 静岡中央銀行)新築工事の際に
地中から発堀されたもので、三枚橋城当時の石垣に使われていたものです。

                        
沼津市教育委員会    現地案内版より

築城年 天正七年(1579)
築城者 武田勝頼

私見

登城日 平成二十年(2008)五月十一日  作成日平成二十年(2008)五月十七日

早い目の昼食を沼津港周辺の食堂で(2度目)頂き沼津城にやってきたが、地元の方にお聞きするが
中央公園を把握されていないようで、聞く度に違った公園でした。
最後に、駐在所に駆け込み、中央公園を訪ねると、中央公園は1箇所しかありません!。
では、説明をします。と、駐在所の壁に掛かっている地図上で説明をして頂きました。

狩野川沿いに川廓通りがあり、この道に旧東海道の道標が建っていた。この川廓通りから石段を上がり
本丸跡に入ると、公園化した西隅に、沼津城本丸址の城碑と案内版が飛び込んできた!。

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