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久能山城

最初はゆるやかな坂道でした

左側に時代を感じる土塀が続き

中腹に勘介井戸がありました

資料不足から石段の厳しさにカメラがぶれる

ロープウェイの発着所の前に城郭の石垣

山頂から麓のイチゴハウスと駿河湾

永禄十一年(1568)年駿河に侵入した武田信玄が、
戦略上重要性からこの城を築いた。
天正十年(1582)三月、武田氏滅亡後、徳川家康が領し
家康の異父弟 松平勝俊が城主となり、のち豊臣麾下の
中村一氏が拠った。
関ヶ原の合戦後、家康の臣榊原清政、その子照久が城番をつとめた。

                 
日本の名城・古城事典より

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所在地 静岡県静岡市根古屋

永禄十一年(1568)
築城者 武田信玄

 永禄十一年十二月(1568)、武田信玄は当山が要害の地であることを
知って寺院を清水北矢部に移し城砦を築いて久能山城と称した。
天正十年(1582)武田氏が滅亡したので徳川の有となった。
山上の勘介井戸、愛宕の曲輪等は当時を物語るものである。

◆勘介井戸
 この井戸は、戦国時代に山本勘介が掘ったといわれ今から約四百年前の
久能山城を語る貴重な文化財である。深さ三十三メートル石垣積で
今回蓋を作り保存につとめると共に照明装置を施し、
内部がよく見られるようにした。この協賛金は井戸保存費である。

◆久能山東照宮
 元和二年(1616)四月、大御所徳川家康公が駿府城にて死去。
家康公の遺言により、御尊骸を久能山に埋葬。
二代将軍秀忠公が山の上に本殿等諸建造物の造営を命じ、
久能山城を廃して久能山東照宮を創建した。 
このように久能山は、寺院・城郭・神社という宗教、
戦略上の重要な拠点として、歴史の表舞台に登場したのであった。

                            久能山案内版より

私見

登城日 平成二十年(2008)五月十一日
作成日 平成二十年(2008)五月十七日

山中城に向かう途中に久能山城をナビで見ていた。資料を持っていないが気になっていた。
田中城でヨシ坊さんと約束の時間のため、田中城から戻ってきた。
ナビは、海沿いの国道150号線に向かっている。山城と言っても海沿いと軽い気持ちで望む。

だが、この気持ちがとんでもない石段(1156段)を登る事になってしまった。
最初は、ゆるやかな石畳で、徐々に石段が厳しくなっていく
!。
100段程登ったところで、息子に(そんなに無いよなぁ)。息子も(そうと思うよ)
お互いに山頂目指して、石段(1156段)を一歩・一歩進む。 まだ見えてこないなぁ?

あとでわかったがその所は、まだ三分の一も登っていないところだった。はっはっはっは
(ノД`)


良くぞ登ったと思うぞ!途中石垣の写真を撮ったが、ブレていた。その嶮しさも分かってもらえたかも?。
だが、山頂からの眺めは その辛さをフッ飛ばし、もう一度いってみたい城になってしまったのである。

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