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膳所城

築城者:戸田一西
築城年:慶長六年(1601)
所在地:滋賀県大津市丸の内

《石鹿城》

《水城》

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瀬田川・東海道・琵琶湖を押さえる要所、膳所崎に城が築かれたのは
慶長六年(1601)、徳川家康の手によってである。

縄張は藤堂高虎がおこない、築城工事は八人の奉行があたるという
いわゆる天下普請として知られる。
竣工後家康は、大津城にいた戸田一西(とだかずあき)を新城に移らせた。
入部早々の一西は栗津七ヶ庄のうち西ノ庄・木ノ下・膳所・中ノ庄・別保の
五ヶ村を膳所城に付して、城下町とした。

やがて、船町・綱町・大津町・魚屋町・伊勢屋町・紺屋町等の誕生をみたわけだ。
その後城主は、一西の嫡男・氏鉄、本多康俊、俊次等と代わるが、ことに瀬田川の
開削、架橋工事および物産の振興につとめたのは、康俊の世である。
領内産の茶は、特産としてひろく知られた。

膳所城の面積は四千三百三坪といわれ、湖水にせり出して建てられた本丸は
二の丸と廊下橋で結ばれていた。したがって、本丸の石垣は常に水で洗われていたし
水面にうつる石垣や白壁の塀、四層の天守閣の展望はうつくしかったという。

だが寛文二年(1662)の大地震で打撃をうけ、城はいちじるしく形を変えたとつたえられる。
改築後の本丸跡が現在の膳所城跡公園であり、二の丸跡が膳所浄水場である。
膳所城の特徴は意外に米倉が多いことで、収容能は十万俵を数えた。
おどろくべき数字だが、有事に備えてのことは明白である。
言葉をかえると、それほど膳所城は戦略的価値が高かったわけだ。

膳所藩は幕府に忠勤を励んだが、幕末になって勤王派が台頭し、鳥羽・伏見の戦いには
桑名攻めに参陣した。明治四年(1871)廃藩になったが、前記の町名はいまなお、
自治会の組織のうえで脈々と生きている。

木製の城碑

膳所城の石碑

膳所城の大手門

大手門の手前の堀と土塀

本丸跡から資料館への橋

本丸跡の石積み

湖面に浮かぶ崩れた石垣

国が定めた三角点

登城日 平成二十年(2008)九月二十一日 作成日 平成二十年(2008)十一月九日
再編集 平成二十二年(2010)九月五日

九月十五日の甲府城巡りを作成中、気分転換に出かけたが、気がつくと滋賀県に来ていた。
位置を見ると大津港近く、ならば12時過ぎなので昼食をとることにした。
何度か行っている店で、美味しい店があったのを思い出す。その近くに膳所城があった事も思い出し
膳所城を先に訪れる事にした。あとでこの事が良かったのである!。

膳所城専用駐車場が大手門の前にあり、信号を渡れば、膳所城の本丸に入る事ができる。
もちろん無料だった

1時間程で隅々まで散策し、先ほどから雷が鳴っていたが、車に戻るなり、大粒の雨が降り出した!。
家内がさきにお城に行ってて良かったね。と目を細めていた。

あとは、ゆっくりとお昼ごはんがいただけます。 レストランの駐車場は1台分空いていました!。

楽しみながら食事をすませ、のち家路を急ぎ、甲府城巡りの作成に意欲をだす!。

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