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小川城

滋賀県甲賀市大字小川字城山

築城者:鶴見伊予守

築城年代:嘉元3年

《山城》

 小川城は甲賀郡南西端、信楽町小川背後の通称城山(標高470m 比高130m)に築かれた山城で
直線連郭式の本城域と北西麓の中之城、南西側の小丘陵に位置する西之城を支城とした複合城郭です。
本城域は主郭を中心に北東・南西側に郭を接続させたシンプルな縄張りです。
主郭は土塁で囲郭された10−15m四方の方形館で、南西端に虎口が開いています。
内部には建物礎石が残るほか、土塁にも部分的に石積が見られます。主郭部の北側には高さ2mの
土塁で区画された東西40m×南北25−30mの平場(北郭)が配置されています。

さらに北側には先端部分に虎口と思われる切れ込みのある腰郭が1段配置され、大手筋を防御する
最終陣地と考えられます。北郭から北側には尾根鞍部を挟んだ小ピーク(北出丸)があり
大手筋を監視する物見と推測されます。主郭部 の南西側には堀切を挟んで南郭(東西60m×南北30m)が
配置され、搦手を防御する郭と考えられます。この本城域から西側に派生した支尾根には西出丸が普請され
比較的なだらかな北西側尾根からの攻撃を遮断する機能が想定されます。築城時期は不明。

一説では嘉元三年(1305)に近衛家の小川荘の荘官鶴見伊予守長実により築かれたとされ、
また正安二年(1300)に興福寺領の下司職鶴見伊予守道宗により築かれたとする説もあるようです。
南北朝期以降、鶴見氏は同じく信楽荘の在地領主多羅尾氏と行動をともにしましたが、長享元年(1487)に
勃発した「鈎の陣」で六角高頼方に与した多羅尾光紀は将軍足利義尚方に与した鶴見成俊の小川城を攻撃して
成俊を駆逐することに成功しました。さらに光紀は近衛氏領を押収して勢力を拡大し、多羅尾氏は信楽荘の
最大勢力に成長しました。光紀の子光吉、さらに孫光俊の代に多羅尾氏は観音寺城主六角氏に仕えていましたが

永禄十一年(1568)に足利義昭を擁した織田信長が近江に侵攻すると織田氏の支配下に組み込まれ、
天正九年(1581)の「伊賀攻め」等の軍事行動に参陣しています。同十年(1582)、「本能寺の変」で光俊は
当時堺遊覧中の徳川家康一向を信楽に迎え無事に伊勢国白子浜まで送り届けています。同十一年(1583)二月
羽柴秀吉が対立する滝川一益の伊勢攻めを開始すると、多羅尾光俊は山城から侵攻する浅野長政率いる羽柴軍を
四男光量の拠る和束別所城で撃退しています。

このため長政は一人娘を光俊の三男光定に嫁がせる条件で多羅尾氏と和睦し、以後多羅尾光俊は秀吉の支配下に入り
信楽を本拠に近江・伊賀・山城・大和に8万石を領する大名に成長しました。文禄四年(1595)、多羅尾光俊は嫡男光太の
娘が豊臣秀次の側室だったため、「豊臣秀次事件」に連座して所領を没収され旧領多羅尾に蟄居を命じられます。
この時に、小川城は廃城になったとされます。その後多羅尾氏は慶長五年(1600)、家康に1500石で召抱えられ
旗本として天領代官を務め明治維新まで続きました。

信楽の町並みが一望できる城山山頂にあります。昭和四十九年に城の土塁が発見ざれたのが発端となり、安土・桃山時代に
多羅尾氏が再興した小川城と判明しました.この山城は、家康が本能寺の変の際、三河へ逃げ帰る、「伊賀越」の途中で
一泊したといわれてるところであり、山頂には三角点があって、城址公園としての整備が施されている。

夜になって、ようやく家康一行は多羅尾氏の本拠小川城に到着した。城主多羅尾光俊は
永正十一(1514)年生まれで、当時69歳。ちなみに光俊は、後の秀次事件に巻き込まれて一時浪人する羽目になるが
秀吉没後に家康に仕え、慶長十四年(1609)二月四日に九十六歳の大往生を遂げている

 さて家康は、城の向かいの小高い茶山に腰を下ろし、館の中を見下ろして油断なく様子を窺い、なかなか門の中に
入ろうとはしなかった。そこで、光俊父子は名物の干し柿や新茶を振る舞ってねぎらい、また村人は総出で赤飯を炊いて
一行をもてなした。これでようやく家康も安心したかして館に入ったという。なお、このとき家康はよほど空腹だったと見え、
箸も取らずに手掴みで赤飯を口にしたと伝えられている。

 この城は小川郷の東にある城山の山頂にあり、当時麓には小川東城(西ノ城とも)・中ノ城があったという。天正二年(1574)の
「杉谷陣屋配陣」に小川土佐守秀三・小川孫一郎貞勝・多羅尾入道道可(光俊)の三人が小川城主とされていることから、
多羅尾氏を中心に三城とも機能していたものと思われる。築城時については、嘉吉三年(1305)に鶴見伊予守長実によって、
またこれとは別に小川氏を名乗った富永俊盛によって築城されたとも伝えられるが、それらはいずれも麓の二城と見られ、
山頂のこの城は出土品などから正安二年(1300)に鶴見伊予守定則の築いたものを天正年間に光俊が改築したものでは
ないかとのこと。また鶴見氏と小川氏は類縁関係もあることや伝承から、甲賀地方に多い複姓を持つ一族である可能性が
あるらしい。つまり、同族ということである。

長享元年(1487)のいわゆる「鈎(まがり)の陣」の際に、将軍義尚方にあった鶴見成俊は六角高頼方の多羅尾光義(光俊の祖父)に
城を攻め落とされ、山城東部の地侍椿井播磨守澄政を頼って奔り、和束郡杣(そま)郷に隠れた。以来ここ小川は多羅尾氏の
支配下になる。そして天正年間に光俊により再築されるが、文禄四年(1595)に豊臣秀次に連座して多羅尾氏は失領、
城は廃城になるという歴史を持つ。右の写真は「鈎の陣」の際に将軍義尚が安養寺から本陣を移したとされる真宝館跡の
永正寺(現滋賀県栗太郡栗東町)である。

この時城内の片隅に一つの社を見つけた家康は、光俊に「何をお祀りしているのか」と尋ねたところ
「愛宕大権現にて、ご神体は将軍地蔵でございます」とのことだったので、社の前に進んで恭しく拝礼したという。
そこで、光俊は「これも何かのご縁でしょう。あなた様のお顔には近々天下を治められる相が表れています。
どうぞこのご神体を信仰なさりませ」と、これを家康に献上した。家康は大いに喜び、後に江戸幕府を開いた時に
江戸城を見渡せる芝の小高い丘の上に、このご神体を祀って社を建てた。
これが江戸の守護神・愛宕大権現の由来とされた後に鉄道唱歌で歌われる愛宕山は、この遺跡である。
なお、家康が泊まったのは、小川から南へ一里半ほど行った多羅尾の居館(甲賀市多羅尾)とする説もあるが
江戸初期の小川付近古地図に朝宮〜杉山〜小川〜丸柱へ抜ける道を
「神君御通路」とあることから、この稿では家康はここ小川城に泊まったものとしておく。
翌朝、甲賀の和田八郎定教(伊賀守惟政の弟)が参上して合流、一行は御斎峠へ向かって出発した。

遺構 郭・土塁・虎口・石積・堀切

bQ57

一つ目の表示板これを左に入れば登城道

二つ目の表示板この三叉路を右に行く

延々と続く登城道

草に隠れているが、石垣が残っている

この山の一番高い、物見台

今も土塁が残っている主郭

力石の看板が根元が腐って倒れていたので
杭を打ち直してきました。

登城日 平成二十年(2008)六月八日
編集日 平成二十年(2008)六月十二日
編集日 平成二十年(2008)六月十五日

再編集 平成二十二年(2010)九月五日

4月の末から5月の連休にかけ(通算7日間)堺から伊賀越えで岡崎まで
三河の住人さんが歩かれました。その足取りを少しでも知りたいと思い
車でですが、小川城に登城して周辺を散策してみました。


大阪から京都方面(
国道1号線)に向かい、池之宮北交差点を
右折(
国道307号線)して、信楽方面へ進む。約30分程走ると
信楽駅手前(
約2km)に(国道422号線)の三叉路を右折する。

500m程進むと
一つ目の三叉路を右折する。700m程進むと
一番上の写真の小川城跡の看板が左にある。その道が登城道である。
そこから
約500m進むと、上から二番目の写真の標識を右に進む。
そこから
500m進むと坂の頂上になり、右側と左側に2台の駐車ができる。

その
三叉路を右折して、坂道を歩いて上がると小川城の主郭がある。
主郭には、休憩所が設けてあり、眺めは最高でした。郭は三つ確認できた。
大きな堀切もあり、ダイナミックな体験できる素晴らしい城郭でした。

車での登城の方は、一番上の写真の所でも駐車できますし、二番目の写真の所の
川沿いでも駐車できますので、決して無理をされませんように登城して下さいね
最終の駐車場は2台駐車できますで、あとの300mは歩いて登城道を楽しまれて下さい!。
ガードレールが無く道幅も狭く落ち葉でスリップして事故ると大変ですから!。
特に下りは4駆に乗っている地元の方でも、怖いと言っていました。

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