名護屋城

所在地:佐賀県唐津市鎮西町名護屋
 築城年:天正十九年(1591)
 築城者:豊臣秀吉
 形  式:平山城 ・ 標高九十
 遺  構:石垣、天守台、空堀
      井戸跡、郭跡

文禄・慶長の役の大本営・名護屋城は、遠く朝鮮半島を北西に望む東松浦
半島北端に位置する。
玄界灘に突き出した標高約九十㍍の波戸岬の丘陵上を中心として築かれ
東西両側に名護屋浦と串浦の二つの入り江を控え、海上水運をフルに
利用した城であった。

名護屋浦は、湾口に加部島を控え、外波を防ぐ天然の良港であった。
壱岐・対馬を経て、朝鮮半島に近いという地理的条件が、ここに外征用の港を
もつ陣城が築かれた最大の理由であった。

陣城といいながら、城域約十七万㎡にも及ぶ大城郭である。
総石垣造りで五重天守には燦然と金箔瓦が輝き、豪華絢爛な御殿建築
十基を超える重層櫓、茶室・能舞台までもが備わり、伏見城や聚楽第にも
匹敵する規模を誇っていた。

三の丸の案内板

山里丸の石積みと碑

本丸からの展望

本丸の碑

本丸の天主臺

本丸の顕彰碑

水手曲輪まで車で上がりましたが、小型車でもタイヤをスリながら
上がりましたので、おすすめはできませんね
フゥ(o´Å`)=з
 


本丸から眺めていると、眼下に呼子が見え 我 に カ エ ル。(◎o◎)!
そうだ!。呼子でイカの刺身が待っている
!
現実にかえった私は、本丸を後に一目散で車を停めている水手曲輪に
猛~ダッシュε=ε=(((((((( っ・`ω・)っ  イカの刺身  

天正十八年(1590)に後北条氏を滅ぼし、名実ともに日本の支配者となった
豊臣秀吉は、性急に大陸出兵をめざした。
明をも支配するための大本営の工事は、加藤清正・黒田官兵衛・小西行長を
中心に天正十九年(1591)肥前名護屋の地で開始された。

日本に滞在していた宣教師のフロイスの記録によると、秀吉は朝鮮に渡るのに
便利な港を家臣たちに問い、名護屋という良港の存在を知ったという。
海外貿易の中心であった平戸から十三里ほどで、1000余艘の船が安全に
出入りでき、朝鮮への航海も容易で、まさに本営として要件を満たす地であった。

現在本丸は発掘調査のため、調査員の方が忙しく走り回っていました。
本丸全体をブルーシートで覆われ、礎石は見る事は出来ませんでしたが広大な
本丸からの展望、名護屋城をとりまく陣跡を見ていると秀吉公の権力を
見せ付けられたように思いました。

この名護屋城迄の各交差点に諸大名の陣跡の名が付けられ、心が高鳴り
最後に右折する交差点が
名護屋城とズバリそのものであった!
城ファンとしては、まさに戦国時代にタイムスリップして馬(車)で登城している
ようでした。

登城日 平成二十一年(2009)二月七日
作成日 平成二十一年(2009)二月二十二日

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