北摂歴史巡り

多田銀銅山・悠久の館

山下城

甘露寺

野間の大けやき

地黄陣屋

余野城

平成十七年(2007)四月十五日

説明に依れば多田銀山は白亜紀後期、
6400万年前の地層に発達したものらしい。
含有量は1トン当たり、金0.2s、
銀0.59s、銅20.9s、鉛5.3s、
亜鉛28sだという。

金山彦神社方面を右手に見て、庭の緑が美しい民家の間を行く。左の坂道は甘露寺の参道だ。
今は無住の浄土宗の寺。参道途中には硫黄島で戦死した地元の名士の立派な墓。
高台に立つ甘露寺の本堂は今はなく、小屋のような建物と古い墓地のみ。寺を辞して暫く進むと
左手に古い道標2基が現れる。一つには「六瀬村木津へ一里、 西、大原野一里」
もう一つには「左、高平 三田道、右、広根 是より万善、ひろね、芝辻」と読めた。

YORIさんに案内して頂く

天禄年間(970〜973)に源満仲(多田源氏の祖)の女婿・塩川刑部丞仲義が新田城(川西市新田)の支城として築城した説。
南北朝期に塩川伯耆前司仲章が築城したとする説。天正7年(1579)塩川伯耆守国満(淳直あつなお)が織田信長から
与えられたとする説です。「山下城」の名称は江戸時代以降に使われたもので、「龍尾城」の名も資料には登場しない
といことから城史の詳細は不明で今後の調査研究成果を期待します

ケヤキの巨樹としては東の横綱が東根のケヤキなら、西の横綱は野間の大ケヤキで間違いないだろう。
東根のケヤキは、どうやら二本が合体したもののようであり、完全な一本のケヤキとしては、
野間の大ケヤキが最も太いケヤキだといえるのではないだろうか。
幹の裂けた跡、大枝を切り取った跡、宿り木の大量寄生など心配な点は数多くあるが、
樹勢はまだまだ旺盛だという。
春の芽吹きがいいと、その年は豊作になるという言い伝えがあるそうだ。

幹周り 14.6m
樹高さ 26m
樹 齢 1000年

国指定天然記念物

 ここ東郷地域は縄文遺跡や古墳群がみられ、さらに律令下では朝廷の典薬寮園となり、古くから政治文化の
さかえた土地柄である。平安後期、多田満仲の一族が能勢に入部して土豪化し、のち国基になって能勢郡を領有、
はじめて能勢氏を名乗り、西方の丸山城を本拠地とした。 戦国争乱は能勢氏にもおよび、天正10年(1582)本能寺の変
には明智方に加担、そのため秀吉配下の河原長右衛門宣勝らの乱入をうけて、丸山城をはじめ城下は焼野原となった。

城主頼次は能勢を離散、以後領地は高山右近をはじめ、数代を経て天正16年(1588)島津氏の管掌するところとなった。
能勢氏中興の祖といわれた能勢頼次は、関ヶ原の合戦には東軍に組みし、軍功により旧領・預地をあわせ1万石余が
宛がわれた。頼次は領内の野間社(布留の宮)の再建を手はじめ、ついで新しく「地黄城」と、城下町の構築に着手した。

[慶長7年(1602)]普請奉行山田彦右衛門の縄張りにより、東西75m・南北110m・面積8200u、さらに大手・搦手・裏には
堀をめぐらし四方には石垣を高く築き高塀が設けられた。城内には御殿・官宅をはじめ拾数屋舎が配され、北隅には三層の
楼閣がきわ立った。普請完成は元和元年(1615)とされている。近世初頭の陣屋城として偉容を輝かせたが、星はうつりて
明治2年(1869)版籍奉還となるや、旗本能勢氏(4千8石)も累代祖霊の見守る中終焉をつげたのである。(現地案内板より)

余野山城守(やましろろのかみ)頼幸(よりゆき)が15世紀末に築いたものです。
当時、能勢の地黄・野間の両城主と合わせて、「能勢の三惣領(そうりょう)」と
呼ばれていたとのことです。16世紀後半(秀吉の時代)、山城守国綱(くにつな)は、
有名なキリシタン大名の高山右近と深く交わったものの、やがて対立し、
天正十二(1584)年に右近と争って敗れ、国綱は自刃、城も焼亡したと伝えられています。

ここは、「余野城」または「 余野幣ノ木(しでのき)城」といい、能勢氏の一族の

YORIさんのカメラで撮った写真

余野城跡案内板

地黄陣屋『東中学校』の虎口

どこかの大学の教授『YORIさん』のようだ、熱心に観察をされる。

校庭に能勢氏が祭られていた

青木間歩

青木間歩

瓢箪間歩

甘露寺の本堂

甘露寺の由来書

野間の大ケヤキ

古い道標

◎今回の北摂歴史巡りは、YORIさんに説明付きで案内して頂きました

悠久の館のパンフレット

山下城の本丸

土橋の手前に龍尾城の名が書いてあった

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