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黒丸城

黒丸城(鳥養砦)は、土石を積み重ねて築いた小城であったらしいが、その築城の

年代や由来についての詳細は不明である。しかし 『細川両家記』 にみえる次のような

記逑は、当時この辺りに何らかの城塞的構造物のあったことをうかがえる。

  同四日に三好方の衆は天王寺迄諸陣くつろげられ候、五日に鳥養へ帰陣也。

  (永禄二年<1559>八月)

同廿二日に諸軍敗軍して始め陣所天満森へ被引退候……然処に鳥養辺にて御談合あり。

  (元亀元年<1570年>九月)

また、字地に黒廻・城ノ前・内殿・地殿などの名前があることから、黒丸城にゆかりの

深い土地かと思われる。

いずれにしろ、本城(砦)は淀川べりに築かれた平城であって、大坂方面攻撃の際

の前線基地の一つとしての機能を濃厚にもった城郭であったと思われる。

                                       
現地案内板より

黒丸城址

《鳥養砦》  《鳥飼砦》

現地の案内版

黒丸城址碑

黒丸城址碑と案内版

所在地 大阪府摂津市鳥飼中二丁目

245

摂津市鳥飼下のあたりには『城の前』・『内殿』・『相撲』・『治部内』などの字地があるが

鳥飼砦の遺構はまったく残っておらず、その位置も確かには決め難い。

したがって、城主・沿革などについても不詳であるが『細川両家記』にみえる次のような記述は

当時この辺りに何らかの城塞的構築物のあったことをうかがわせる。

同四日に三好方の衆は天王寺迄諸陣くつろげられ候、五日に鳥飼へ帰陣也。

        (永禄二年<1559>八月)

同廿二日に諸軍敗軍して始め陣所天満森へ被引退候……然処に鳥飼辺にて御談合あり。

        (元亀元年<1570>九月)

いずれにしろ、本砦は淀川べりに築かれた平城であって、柱本砦(高槻市)・

一津屋砦(摂津市)などと共に、大坂方面攻撃の際の前線基地の一つとしての

機能を濃厚にもった城郭であろう。
               
             日本城郭大系より

私見

登城日 平成二十年(2008)三月一日  作成 平成二十年(2008)三月九日

土曜日、仕事を終え摂津市の鳥飼仁和寺大橋 の摂津側の高架の側道で、信号待ちをしていた時左に碑が見えた。

信号が青になったが、気になり車を寄せ、確認しに行く。石碑の文字を見て
驚く!!

黒丸城址と書いてあった!。慌てて車にカメラを取りに戻り、シャッターを連打する!。

気が落ち着いて辺り見ると、前の工場の人が仕事を終え、車を洗いながらこちらを見て(ニヤニヤ)としていた。

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