郡山城

大阪府茨木市郡山1丁目(浪速少年院付近

城主  郡兵太夫宗弘・郡兵太夫正信

《平城》

文亀年間(1501)〜

大阪府茨木市の郡山城跡

浪速少年院の前に郡山城跡の碑

天正の頃、芥川城主・和田伊賀守惟政の武将・郡兵太夫宗弘城主たりき。
郡家に蔵する『郡氏由緒書』の一節に、

郡兵太夫は、摂津国高槻之城主和田伊賀守仕、同国郡山之城主、郡村、中河原村
宿河原むら、上野村、下井村、五ヶ市村、七ヶ村を領致申候、
天正一年七月、伊賀守は荒木摂津守と合戦有之、摂津守は馬塚に陣を取り候扁
伊賀守郡山より三町ばかり北東の方に當り箕原村と中河原村との間糠塚と伝所まで出張致候。
此所、前は河原、北は山にして(中略)兵太夫先手に進勇戦を致し候へば、
伊賀守、中川瀬兵衛と戦ひ討死致候ゆえ、兵太夫も陣地より二町程こなた、郡村の内において討死を致候
その馬は黒毛の名馬たる由にて、彼馬に向へば、畜生も能く動候事よと存申候伝々と記さる。

また大阪府全志には、天正一年和田伊賀守、茨木佐渡守等の足利義昭の命を奉じ
三島村大字耳原の糠塚に陣して、織田信長の武将、荒木摂津守村重
池田筑前守輝政と白井河原に戦ふや、兵太夫進みて輝政の先鋒に當りしも
遂に山脇某の手に斃る伝々とあり
今や山地、田地、畑地、池と化し(大部分は浪速少年院の敷地)漸く字地域の内を有するのみ
少年院工事中ハニワ(殉死的人形焼物)堀出づ。
   
     茨木教育委員会発行の わがまち茨木 城郭編より

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『郡氏由緒書』によれば、高利平太夫(郡兵太夫)は、摂津国高槻城主和田伊賀守につかえ
この国立浪速少年院辺りにあった郡山城にいて、近郷七ヶ村を支配していたと言われています

陰徳太平記によれば
元亀二年(1571)八月、茨木、伊丹両氏と池田氏との対立が、茨木方の和田惟政と主君池田勝正を
追出した荒木村重・中川瀬兵衛ら池田二十一人衆との対立になり、白井河原をはさんで合戦した。
この時、和田惟政軍五百余騎、池田勢二千五百騎と多勢に無勢であり、和田軍の部下の
高利平太夫(郡兵太夫)が一人で池田陣に行き『主君は将軍からの急な呼び出しがあって
京都に赴いているので、その帰りを待ってから戦闘を始めたい』と申し入れ時間稼ぎをしたが
計略をみやぶられて戦闘は始められました。 

帰陣した兵太夫は主君・惟政に『この軍勢では勝ち目が無いので一旦退却してはどうでしょう。
時に応じて軍を進めたり退いたりするのが名将ですよ』と、退言したが聞き入れられず
やむなく名馬『金屋黒』にまたがって、縦横無尽に戦ったが奮戦むなしく戦死したという。

ここに置かれいる石は、城の石垣に使用されたと思われる石で、三ッ鱗・三ッ星印が刻まれています。
またここから約三百メートル西へ行った、大阪府営茨木郡山住宅B9棟の辺りに『城の内』『門口』など、
城の位置を示す地名が残っています。

                      茨木市教育委員会     現地の案内板より
登城日 平成十九年(2007)十月二十日  作成日 平成十九年(2007)十月二十七日
昼過ぎに自宅を出発し、郡山城に向かう。浪速少年院をナビに打ち込み、約20分で到着。
少年院の門手前のところに車を停め、由来書に目をやり、石の周りを見るが、三ッ鱗・三ッ星印の刻はわからなかった。

土塁跡だと思うが、由来書うしろに残っている。 一通りの撮影を終え車に乗り込もうとした時、少年院の監視員の方が近づいて来て
『お城に興味がありますか?』と説明体制に入る。 少年院を建てる時に沢山の遺構がでてきていますので、
その遺構を館内に保管しています。『興味があれば、案内しますよ。』の お言葉に甘えて、少年院の中で説明を受けた。

敷地内・撮影禁止!。公表は控えてとの事。でした。 沢山の遺構を拝見し、のち郡山城の城郭の配置を教えて頂き意気揚々と帰ってきた。

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