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岸和田城

岸和田城は和泉国の中心にあり、かつ大坂と和歌山を結ぶ紀州街道の要衝を占める。
この地は海に面して古くから開けていた『岸』であり、延元年間(1336〜40)
楠木正成の一族和田高家がここを根拠としたことから『岸ノ和田』と呼ばれていた。
この和田氏の城は現在の野田町附近、俗に『城やしき』と伝承される地にあったという。


この野田1丁目の『和田氏居城伝説地』の碑が建つ周辺がその跡だといわれている。
のち和田氏の一族である信濃氏(春木城主)が古城の地を受け継いだ。
このとき信濃氏があらたに築城した地が、現在の岸和田城二の丸の所と伝わる。
しかし、二の丸の地に城を築いたのは永禄、元亀のころ(1558〜73)松浦肥前守たとする説もある。
そのころの岸和田城は、今の二の丸あたりが本丸で、海岸を背に築かれた簡素な造りであった。
それを現在の本丸のほうへ拡大され、南に対する虎口に馬出し状の「あぶみ堀」が付け加えられた。
さらにその南方には出城を配置して外郭を固めていた。これが初期岸和田城の形成であった。


戦国時代には各所に砦・城塞があって群雄割拠していたらしいが、天正十一年(1583)に
豊臣秀吉の武将中村一氏が入って岸和田を守り、紀州攻略の前線基地とした。
当初の規模は『古今重宝記』に「……矢倉石垣なども無く屋敷の前に堀をほりて
鹿相構へにて今の二の丸辺之由申伝はる」とあり、たいして大きくも無く簡略なものであったらしい。


慶長二年(1597)小出氏の時には、五層の天守が完成し。元和五年(1619)松平康重は入城後
城郭に総曲輪を置いて城下町を整備した。次いで寛永十年(1633)入城した岡部宣勝は、城郭を大改築した。
新しく設けた曲輪に、伏見城(京都)から櫓や城門を移築し、堺口、伝馬口の城門を整備した。
移築された伏見櫓は城内唯一の三層櫓で、五三桐の金箔瓦が屋根を飾っていたといわれ
二の丸の北隅に明治初めの破却まで存在した。


完成した岸和田城は、東西約370m、南北650mの平城で、本丸・二の丸・三の丸を総曲輪を持った
規模の大きなものであった。その縄張は、本丸と二の丸が軸線に並ぶ天秤あるいは織機の滕(ちぎり)に
似ているため千亀利城(ちぎり)の別名が生れたという。


岡部家の藩主代々は本草(薬草)学に熱心で、現在の裁判所附近に薬園があって整備されていた。
なかでも九代藩主長慎の『重訂本草網『目啓蒙』は、本草学史上有名なものという。
五代城主長泰は、城の鎮守として京都の伏見稲荷を勧請にしたさい、城下の人々がこれを大いに祝い
車をつけた箱に太鼓を乗せて賑やかに躍り歩いた。これが今日の地車祭で、九月になると飾りつけた
地車が市内を引き回す。地車と天守閣はよく似合う情景として、秋の岸和田に映えるが、昭和四十四年に
再建された城門と隅櫓の白壁は、緑の水堀と対比され岸和田城を一層美しく見せる。

岸城神社前から岸和田城を望む

創築者・小出秀政
創築年・天正十三年(1583〜98)
所在地・
大阪府岸和田市岸城町九番一号

《平城》

≪蟄亀利城≫

≪猪伏城≫

bQ59

登城日・平成二十年(2008)八月十五日  作成日・平成二十年(2008)九月四日

見事な犬走り

天守と櫓

和歌山城からの帰り道、岸和田城に寄った。岸和田城の二の丸広場よりの西方の眺めが古い町並みがあって良い。
岸和田は空襲にあっていないことから町並みを歩いてみてもどことなく風情があるが、車で訪れた時は
道が狭いのと曲がり角は普通車以上の車は曲がりきれないかもしれないので、通行を避けた方が無難かもしれない。


余談だが、この地はもともと「岸」と呼ばれていたところらしく、楠木正成一族の和田高家が築いたことから
『岸』の『和田』がなまり『岸和田城』と呼ばれるようになったらしい。
歩いて城下町を散策すれば、一日中楽しめるかもしれないですね。
再訪の時は、車を預けてゆっくりと城下町を散策したいと思います。

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