私部城

築城者:安見清儀 文和元年(1352年)
所在地:大阪府交野市私部6丁目

交野城址は西北なる畑地の中にあり、一小丘をなして高さ五尺乃至壹丈餘、廣さ五千坪に餘れり。
今も字を城山といひ、域内には天主臺及び本丸等の名を殘せり。城は一に私部城とも呼び、安見氏の
據りし所なり、安見氏は高屋城主畠山氏の重臣なり。明應二年四月二十八日畠山政長の同族畠山義豊
に攻められて正覺寺に自殺するや安見氏は木澤長政・杉原・齋藤・志貴・丹下・宮崎・遊佐等と共に
同七年畠山尚順(山ト)を取立て、同八年正月二十七日義豊を攻めて自殺せしむ。其の後畠山高政の
時に至り、安見美作守は遊佐長教に代りて守護代となりしも高政を蔑しければ、永禄元年十一月晦日
高政は高屋城を出でゝ紀州に去り、安見美作守は自ら當國の守護と稱せしに、三好長慶に攻められ
同二年年八月朔日同城を落ちて飯盛城に入り、同城も三好衆に攻められて同四日遁走せり。
                                   大阪府全志より

私部城址の石碑

№403
北から見た堀切跡

南から見た堀切跡

堀跡

交野郵便局

土塁

私部城の説明板

土塁

出曲輪

交野郵便局の左に見える竹薮に土塁が
残っています。土塁の中には入れませ
んが、駐車場から確認できました。

二の丸

北側の道路、交野郵便局バス停の前から
入れる二の丸駐車場。入り口左側には
説明板が建っています。寸断された道路の
向こうの竹薮に、土塁が残っていました。

北から見ると左が本丸で、右が二の丸
となります。その間に堀切が残って
いました。

堀切

本丸

本丸の南側に掘り跡があり、住宅の入り口
付近の枝垂れ桜の幹元に私部城跡の石碑が
ありました。なかなか見つからず、地元の方に
教えていただきました。

登城日 平成22年(2010)6月19日  作成日 平成22年6月20日

《交野城》

《市場城》

雨の予想が曇りになり、急きょ、交野(かたの)城にやって来ました。交野郵便局交差点
の東100mのところに京阪バス停があります。そのバス停の端から二の丸の無料駐車場に
車を停め、散策開始しました。二の丸の入り口に私部(きさべ)城の説明板があり、南に
進んで行くと堀跡がありました。右に向かって歩いていくと、交野郵便局に突き当たります
その左の竹薮に土塁が残っていました。私部城の石碑が見つからず、畑を耕していた
おばさんにお聞きしますと、郵便局の前の道を150m進み、住宅の二軒目の枝垂れ桜の幹元に
ありますよ、と教えていただきました。住宅の二軒目確認!。枝垂れ桜の木確認!! 
石碑が無い!!  犬を散歩している方にお聞きすると、眼のまえにありますよ、と見ると
ありました! 笹で隠れていました。笹の枯れる11月頃に再訪してみます。

きさ   べ

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