戦国期、河内畠山氏の守護代・木沢長政は、この城を改修し居城とした。享禄四年(1531)、
長政は主君・畠山義宜から離れて細川晴元に属したため、畠山軍の攻撃を受けるが細川軍の
救援によりこれを撃退。翌年、再び畠山軍の攻撃を受け、長政は細川晴元と本願寺に救援を要請。

両者はこれを受諾し、援軍を差し向けたため畠山義宜は戦死。またこの年の六月、細川晴元と不和に
なった細川家臣・三好元長を堺で討っている。以降、長政は足利将軍家に直接仕えるようになり、
細川家との関係が薄れたために天文十一年(1542)、細川晴元と三好長慶の攻撃を受ける。

河内太平寺で戦闘になり、長政は戦死。交野城主・安見直政が城主を兼ねた。
直政は畠山家臣であるが、自ら河内守護代を称し、主君・畠山高政を紀伊へ追放。
三好長慶は高政を救援し、永禄二年(1559)にその攻撃を受けて大和へ敗走。
畠山高政は河内へ復帰し、高屋城へ入った。しかし、高政は河内へ三好氏の勢力が
伸びてくる事を恐れ、長政を赦免して河内守護代に任じ、再び飯盛山城主とした。

長慶はこれを聞いて憤慨、高屋城の高政を包囲し、直政の軍勢を打ち破ったために高政と直政は
堺へ逃走。翌年十一月十三日、長慶は飯盛山城へ入城し城主となった。永禄五年(1562)四月、畠山高政は
紀伊根来寺の僧兵を味方につけ、飯盛山城を攻撃したが、長慶は安宅冬康・松永久秀の援軍と共に
畠山軍を挟撃し追い払った。永禄七年(1564)七月二十四日、長慶は病没。跡を継いだ三好義継はここを
出て高屋城へ入城。永禄11年(1568)、織田信長が摂津・河内を平定すると、この城は畠山昭高の
支配地となった。元亀年間(1570~73)、畠山家臣・遊佐信教が居城したが、天正四年(1576)に
信長の攻撃を受け落城。以後、廃城となった。

飯盛山城

築城者:恩地左近太郎か木沢長政
所在地:大阪府四條畷市南野

 登城日 平成22年(2010)7月1日  作成日 平成22年8月18日

自宅から車で約1時間余で飯盛山麓の野崎観音に着き、ハイキングコースで登城開始! 
真夏の城巡りは水分補給に気をつけないといけないので、リュックがずしりと肩に
くい込みます。野崎観音から約1時間半で楠公寺に着く。ここから10分程で頂上の
本曲輪に登れますが、この辺りから待望の石垣が多く観うけられます。

本曲輪では、数人の方が眺望を楽しみにされていましたので、お聞きしますと
殆んどの方が、毎日登られているそうです。今回おせはになりました川口さんも
毎日登られるとの事。春夏秋冬この頂上からの眺望を、みなさんが楽しまれているなんて
うらやましいですね。また、この飯盛山には珍しい蝶が沢山飛んでいて、その蝶を
採集に来ている若者が数名居られました。城巡りだけでは無く、色々な楽しみで
飯盛山に登られているみなさんは、生き生きとされていました。

本曲輪下にある石垣

本曲輪に上がる石段

本曲輪から浪速の眺望を楽しめられます

≪山城≫

 №406

頂上近くの楠公寺

頂上近くの登城道

今回お世話になりました川口氏

本曲輪に建つ楠木正行の銅像

南丸曲輪の石垣

楠公寺近くの登城道

野崎観音からのハイキングコース

標高314m

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