水尾城

 水尾城は、応仁の乱(1467〜)で全焼した紫雲山西方浄土寺の焼跡に
 造営された中世のお城です。
 城のことについては「福井近郷古跡古伝上下」という和綴写本の中に、
@永禄九年(1566)十月二十日池田筑後守勝政、茨木城に発向し
長田河原(市立斎場付近)に陣し、芥川の城の中村新兵衛高次、
高槻城主入江左近将監らと相戦う。
入江は富田の間に陣し、中村は総持寺村門河堤に陣す。
入江・中村らは敗北し勝政は茨木城に帰陣す。
A永禄十年十月十日夜、南都大仏殿において三人衆(三好の一党)と
義継(十二代将軍義晴の弟)は久秀(松永弾正)と相戦う。
時に中村新兵衛高次、茨木佐衛門尉(城主)水尾の郷士(元は斉藤妙椿の浪人)
平尾孫左衛門らは三人衆に属す。と記されています。
 美濃の斉藤妙椿が没したあと、主家斉藤家の内紛のため平尾孫左衛門は、
斉藤家と離れて西方浄土寺の焼跡・奥の院の勝光寺の東佐奈部神社の南、
高瀬川に沿った一画に新しく環濠の砦を築いたのが「水尾城」のはじまり、
元和偃武により退転したと思います。 この水尾荘は、のちに徳川幕藩体制により、
水尾村・内瀬村・真砂村の三村に分かれました。

                             『水尾城跡案内板』より

所在地・大阪府茨木市水尾3丁目

築城者・平尾孫左衛門

水尾城について、府立中之島図書館大阪室に収蔵の和畷写本に『福井近郷古跡古伝上下』の
中で珍しい記事が見つかったのでここに紹介する。

@永禄九年(1566)十月二十日池田筑後守勝政、茨木城に発向し長田河原(現・火葬場附近)に陣し
 芥川の城を中村新兵衛高次、高槻城主・入江左将監らと相戦う。
 入江は富田の間に陣し、中村は総持寺村門河堤に陣す。
 入江・中村らは敗北し、勝政は茨木城に帰陣っす。

A永禄十年十月十日夜、南都大仏殿において三人衆(三好の一党)と義継(十二代将軍義晴の弟)は
 久秀(松永弾正)と相戦う。時に中村新兵衛高次、茨木左衛門尉(城主)
 水尾の郷士(元は斉藤妙椿の浪人なり)
 平尾孫左ヱ門らは三人衆に属す。
と記されてあり松永久秀による大仏殿炎上(二度目)が起こった。ここに言う中村新兵衛は茨木の名門
釘新(釘屋新助、醸造業(酒・しょうゆ)水尾の郷士・平尾孫左ヱ門は平尾本家の
先祖(現・平尾光煕、祖父次三郎は第四代玉櫛村長)

前記『東城址図誌』にも図面があるが、その小字クラシローの千百坪は、堀に囲まれた平尾家の
屋敷千坪の東南に隣接しているので、図誌にあるところは城の米蔵ではないかと考えている。
あるいは焼かれて少しは動いていることも推測される。


                            『福井近郷古跡古伝上下』より

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応仁・文明の乱ののちに二年にして斉藤妙椿が没したあと、主家斉藤家の内紛のため平尾孫左ヱ門は
斉藤家と離れて西方浄土寺の焼け跡・奥の院の勝光寺の東、佐奈部神社の南、高瀬川に沿った
一画に新しく砦を築いたのが『水尾城』のはじまりと思われる。


永禄十年の平尾孫左ヱ門は妙椿の死より87年後にあたり孫の代になるかと思われ
水尾移住後も戦国小名として武者の旗を立てていたが織田信長が義昭将軍(1568〜1573)を
奉じて入京するや、旧勢力一掃のため各所で焼討ちをしたため、そのとばっちりを受けて
あっさりと弓馬を捨てて帰農し、ひたすら村の草分けとして開拓に励み、代々庄屋として
世話をし続けて明治・大正を迎えたということである。


           『興福寺大乗院寺院雑事記』雑事要録文明十三年(1481)より

フェンスから城碑まで20cm

マクロで二枚合わせて

水尾城は、玉櫛小学校の西側、住宅地に囲まれた小さな神社(伯光稲荷神社)の境内あたりに築かれていた。
境内は子供の遊び場になって、右後が駐車場になっている。夕方になっていたので城碑を探すが見つからない。

境内に入り探すがわからず、陽が暮れてきたので写真撮影を済ませ道路に出た瞬間!右隅に何かが見えた
良く見ると、40cmほどの城碑がたっていた。が、案内板が見つからない!。城碑の写真を撮るが、笑ってしまう
どうしてもう少しフェンスから離して設置できないもんかと!。いろいろ考えた末、マクロ撮りで二枚合わせにした。
茨木市教育委員会のみなさま、お願いします。 城碑の設置をもう少し考えて下さいね

登城日 平成十九年(2007)十二月十五日  作成日 平成十九年(2007)十二月十六日

日が暮れかけ、フラッシュが光った

5分後、完全に日は暮れ完全フラッシュ!

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