目垣城

目垣城の案内板

奥田邸の庭の案内板

目垣の地は、古代から中世にかけて広くこの地を統裁していた
溝咋氏の所領溝咋荘の内にあり、溝咋荘の代表的な土地であったことがら
この名が付けられたといわれています。

城跡に関する資料としては『大阪府全志』(巻三)
溝咋村大字目垣 本地は古来嶋下郡に属し、もと溝杭荘の内にして目垣村と称す。

『摂津志』には本地に塁堡の址ありと記すれども今其の址は詳ならず。

『日本城郭大系』(十二巻)
目垣城、茨木市目垣『摂津志』には山田十三城の一つとして目垣の名をあげるが
位置、興廃年月とも不詳。

以上のように、この辺りに土豪溝咋氏の城館があったことが伺えますが
その興亡や跡地を断定することは困難です。
しかし、溝咋氏は古代からこの地方に勢力のあった豪族で、目垣を中心として
館を造り塁堡も築いたことは当然考えられます。
その場所は、おそらく安威川左岸、育英橋を下った辺りであると考えられます。

   (石碑・説明板の設置場所については奥田光氏のご好意によるものです)


            
茨木市教育委員会       説明板より

安威川に架かる育英橋

この地域目垣は古代から中世にかけて広くこの地方を統裁していた
溝咋氏の所領溝咋荘の内にあったのである。
しかもここ目垣は、溝咋荘の代表的な土地であったことからこの名が付けられていたという。

目垣を中心として、この時代に溝咋氏が館を造り塁堡も築いたことは当然考えられることであって
これが現在の目垣城と称するものであろう。
この溝咋氏の祖が三島溝咋耳命と考えられ、延喜式内の古社に祭祀されている。
溝咋氏は古代からこの地方に勢力のあった豪族である。さて、塁堡の跡不明とあるが

おそらく安威川左岸育英橋を下った府道茨木寝屋川線左右地点であると考えられる。
即ち、由緒ある歴史をもつ仏照寺(真宗西本願寺派 弘長二年(1262)創建)に延びる広い一帯にかけ
砦を巡らせたであろうとおもうのである。 現在の目垣1丁目である。

また、古代かの溝咋神社の参道は随分長く、目垣はその参道先に当る重要な地域であったようだ。
荒廃の歴史等詳細は不明とせざるを得ない。尚、この附近(目垣3丁目)には目垣遺跡があり
弥生時代〜奈良時代の弥生式土器・須恵器・瓦器が出土している。
この遺跡との関連も考えていかねばならないもである。

             
茨木市教育委員会  わがまち茨木  城郭編より

築城者・溝咋氏
大阪府茨木市目垣1丁目

仏照寺の境内に櫓が?

目垣に城跡があったととは誰も信じないと思うが、玉島村誌を見ると
城跡があったらしいと書いてある。城といっても土石を重ねて築いた小城で
西に流れる安威川を要害としていたと思う。多分城主は溝杭氏であろう。
同氏は溝咋村を中心とする安威川下流域を支配していた武士団で、典型的な中世の在地領主であった。

後に源氏とも交流があり、溝杭源氏ともいわれている。
馬場(現在の五十鈴町)という地名は彼らの武芸訓練の場であったかもしれない。

玉島村誌(昭和10年2月11日山田平三郎編三島史蹟研究会発行)より

登城日 平成十九年(2007)十一月十七日(土)  作成日 平成十九年十一月十七日

阪神高速の守口線を出て京都に向かう途中、国道太間交差点を左折する。淀川を渡り、そのまま直進で野々宮交差点を右折する。
府道14号線に乗り、次の南目垣2丁目交差点を左折する。100mほど行くと左に公園が見えてくる。この公園が目垣遺跡である。
次の目垣交差点を左折して二筋目の細い道を左折する。
小型車のみ通行可
突き当りを右折して、次左折する。右側が仏照寺で左の角に案内板が見える。次も右折して突き当りが安威川の土手に上がる。
遺構は見当たらなかったが、仏照寺の境内の櫓とも思える建物が城跡かと間違えるほどの建物でした。
その仏照寺の境内で山門と本堂の写真を撮らせてもらい、次の目的地、京都に向け車を走らした。

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