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泉原城

@ 泉原城碑

A 市立清溪小学校校門の右側の案内板

B 『前の畑が曲輪跡じゃ』と言ってたところ

摂津志以下、諸書に泉原氏の城として記載さあれている城砦である。
泉原は市の北部山地に開けた盆地で、地名の起こりとなった豊かな湧水は佐保川となって流下し
かっては市の中央を茨木川となってながれていた。当地から縄文早期の石器が採集されている。

また、市内最高峰の石堂ヶ丘山山頂付近には、土器・石器が出土している。
12世紀中頃のものと見られる奈良県郡山市の西方寺蔵である、大門寺旧蔵一切経奥書中に
『於忍頂寺泉原村佐伯常近書写畢』とあるのが記録上最も古い。これは当地が忍頂寺の庄園内に
あったことを物語っている。その後忍頂寺は仁和寺の末寺に組み込まれ仁和寺の庄園として統治された。


泉原氏の名が記録に現われるのは、勝尾寺文書、暦応三年(1340)の高山庄雑掌職宛行状案に
『泉原左近将監行親、子息鶴丸』の名がみえるのが最初で、彼が勝尾寺に協力したので高山庄の
庄官に任ずるというものである。以後、同寺文書に寄進状その他があり、文安四年(1447)の寄進状は
泉原喜多藤原次郎左ヱ門入道道請が、勝尾寺に栗生村の菩提寺の別当職と職田を寄進したもので
泉原氏が村外にも所領の蓄積を進めていたことがうかがえる資料である。

宝徳三年(1451)の歳末巻賦日記には泉原北殿の注記に『是は苔提寺寄進旦那也』とある。
仁和寺庄園内に居住する泉原氏としては、附近に散在所領を持つ勝尾寺と結ぶことによって
在地支配力の伸張を計ったのであろう。天文頃の文書では、当時の泉原氏惣領とみられる左近将監盛良は
官領細川氏綱の被官となって現われてくる。

さて城跡であるが、大字泉原字上殿垣内に位置し、市立清溪小学校の敷地がその中心である。
東谷川と西谷川に挟まれた逆三角形の地域内に学校敷地を要として三方に派生する尾根に構築された
連郭式の城砦である。学校本館のあたりの茶臼山と呼ばれた所が中心で、その名の通り二段に削平された
郭が存在した。本丸に当たる部分は径30m位の不整円形をなし、その裾に二の丸が廻る。
二の丸との比高は約3mである。二の丸は本丸の東部から北にかけて存在し、南北50m、東西巾10mである。

西側は谷に面した自然の斜面に続き人工に痕はみられない。南は尾根が下降しており、この尾根筋が
三の丸からの通路であったようである。東は斜面をなして居館跡と考えられる三の丸に続く。
北は比高15m〜20mで水田に面する。水田下には、沼地状の土層があり湧水が見られるので
この部分には水堀を置いた可能性もある。西側は谷を抱え込むような形に尾根が延びて、その尾根筋の
外部に土塁状の地形を残して三ヵ所の郭状の地形が連なるが、城郭遺構であるか否かは決め難いものがある。

その南側に30m四方の一郭があり、北側は大きく削られて高さ9mのいわゆる削崖を形成している。
三の丸は南北60m、東西巾30〜50m位、三方は急斜で囲まれている。この郭の東南突出部に25m]10m位
の小郭があり、西側で土塁を削り残している。この部分が当城跡で、現在当初の地形を完全に保つ唯一のちてんである。

これらの郭群から150m東方に谷を介して丸山と呼ばれた小山があた。
四周は急斜をなして、頂上は径30m位の平坦面が畑地となって残り、その東側には腰郭状の地形が伴っていた。
地元では城郭としての伝えはないが、この山際には居住の久保常和氏宅が屋号を『城の腰』と称することは
この附近にその地名が残っていた欠課ともみられる。このことは地形と相まって出丸的な遺構であった可能性が強い。

この山も採土によって消滅したが、その際多くの中世墳墓関係の石造品が出土した。
城は地域守備を目的として築かれたと思うが、城全体の構えを見れば東方を強く意識して築かれたようである。
ここには忍頂寺方面から佐保に至る旧道が通っているのである。築城の時期については、勝尾寺文書に泉原氏の名が
でてくる頃かと思うが明らかではない。しかし出丸推定値より出土した石造品の中には室町前半頃かと見られるものも
あることから築城はそれ以前かと思われる。廃城の時期も不明だが、勝尾寺文書の中に、泉原氏の名が見られなくなる
永禄頃でもあろうか。現在地元には泉原氏に関する伝承は全く残っていない。

付記すれば城地の一角に堂の前の字地があり、古瓦等を出土する。
平安頃から室町末頃に至る土陶器がみられ、瓦も鎌倉末期風のものに始まり室町末で終っている。
山間部では使用例が少い瓦を使うなどかなり目だった存在である。
墳墓関係の石造品の見られる地点とも接近するので、泉原氏の三昧堂的な存在であったのかも知れない。
泉原氏とその盛哀を同じくしているようにみられる。


            茨木市教育委員会発行 わがまち茨木  城郭編より

登城日 平成二十年(2008)一月五日  作成日 平成二十年(2008)一月二十七日

太田城からこの泉原城を目指して来たが、途中に佐保地区を通ってきた。佐保城・佐保栗栖山城の存在はわかっていたが、位置は確認していなかった。
佐保地区を過ぎ、市立清溪小学校を登録してあったナビを見ると、約5kmで着く。城跡を探すにはナビが欠かせない。
清溪農協を過ぎ、次の交差点を左折して、一気に坂を駆け上がる事400m。左に市立清溪小学校が見えてくる。

その市立清溪小学校の校門右側に泉原城碑と案内板が確認できた。学校前は、かなりの坂道でバスが唸りながら登っていったが
お客さんは乗っていなかったようだ。ビデオ・カメラと約20分の撮影を終え、辺りを見ると、清溪小学校の
反対側に住まれている方が大きな声で
『城を見に来たのか〜』と、叫んでいた。慌てて近くまで走って行くと、『この畑も曲輪跡だから写真に撮っておいた方が良かろう』と教えて頂いた。

その写真がB番の写真です。その畑の前にお住まいの方は、代々この土地に住まれていて昔の事は把握しているから、いつでも聞きにきても良いと
嬉しいお言葉まで頂きました。今年は幸先の良い城巡りでした。

築城年 室町時代前半(1336)
築城者 泉原氏
所在地 大阪府茨木市泉原

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